プレイヤーと傍観者

シンガポールで米朝首脳会談がありました。内容や思惑については報道で知るしかありませんが、違った角度で考えてみました。

まず、プレイヤー(当事者2人)と取り巻く国の首相たちが観客、我々のような庶民は傍観者と言う立場です。傍観者である我々はこれから始まる国際的な政治ゲームの結果を報道で聞きながら考えるしかありません。

プレイヤーの2人は70代の世界最強国の大統領と30代の独裁者です。結果はともかくとしてこの差でかみあうのが不思議です。世界が振り回されています。善悪はともかく日本にこの2人とやりあえるプレイヤーはいるのでしょうか。政治界、経済界に官僚にも出てこなければ、ずっと観客か傍観者でいるしかありません。

日本は過去に戦争という間違った選択をしてしまいました。それは傍観者である庶民が騙されて戦争に反対の意見を持つ者を非国民という言葉でおさえつけてしまったことが大きなながれに勢いをつけてしまったと思っています。傍観者にしかなれない我々の声、どんなおいしい話でもダメなものはダメという覚悟は必要です。

傍観者の我々は受け身ですから、実践するものからすれば弱い存在ですが、ほとんどの世界の人々は傍観者の立場なのです。傍観者は受け身で力は弱いかもしれませんが「不作為」だけはいけません。知っていて見過ごすのはだめなのです。商売でもそうです。どんなに大企業であろうが、有名大学であろうが、歴史的団体協会であろうが、ダメなものはダメなのです。まして政治家なら尚更です。

日本にも対抗できるプレイヤーをつくる必要があるのか、それとも今までにはない別の道を考えていくのかを決める時が近づいてきているのかもしれませんね。

時代という言葉

 最近、時代という言葉をよく使っている気がしている。もちろん無意識に使っているのだけれどブログや名刺の作り方を書く際に文字でよく使ってしまっている。他でも友達と飲んだりしている時にも出ているのだろうか。

 来年は平成も最後になり、2月に新年号が発表になるとのことです。昭和も遠くなりますね。昭和で33年、平成で30年生き抜いたことになる。次の時代はどんな塩梅だろうかとか考えるので時代という言葉が多くなっているのかもしれませんね。

 この間、テレビで若い娘が歴史上でどんな時代をのぞいてみたいかという質問でバブルと答えていました。ああそうかバブルはもう歴史上の出来事のひとつなんだと思いました。まして戦争は完全に遠いむかしの出来事で、まさに歴史なんですね。

 時代というのは同世代に生きた者にしかわからない空気みたいなものがありますね。昭和には昭和の、平成には平成の空気感があります。どう伝えればわかってもらえるんだろう。自分たちも戦争を知らない子どもたちだし、大正ロマンとかのイメージはテレビ、映画、本などでみても空気感がわかりませんからね。

 明治維新も戦国もその空気感は想像でしかありませんし、登場する人物も想像でしかないわけです。きっと空気感まで感じられるといたたまれなくなってしまうでしょう。時代という言葉が増えたのには、歳をとりちょっと振り向いてしまうこともありますから注意して前を向かなくてはいけないと考えています。

 しかし、酒を飲んで騒ぐ時は同世代の仲間と同じ空気が伝わると酒もすすみ楽しいですよね。ああ、飲みたくなってきた。もう今日はこれで考えるのはお休みです。日曜日だし早めにひと風呂あびて飲んじゃおうと思います。

 

ショッキングなニュースの監視を

 ショッキングなニュースがながれていました。土木学会が発表した記事ですが、地震発生から20年間で南海トラフ地震の被害は1410兆円、首都直下型は770兆円との話です。そして日本は最貧国になるという恐ろしい話です。

 その対策は道路、港湾、堤防などのインフラの耐震対策で南海トラフは40兆円の投資で509兆円、首都直下型は10兆円の投資で249兆円の被害が減らせるのだそうです。金額が大きすぎてピンとこないのですが信用できるのでしょうか。国の役人は都合の悪いことは文書を書き変えても責任はとりません。年金も入札で出した会社が不備をして解散しても年金の額は上がることはありません。名だたる日本の企業は安全神話の裏ででたらめな仕事、データの改ざんが発覚しています。

 どうしてもこのデータの裏で誰かが色んなことを画策し始めていると感じてしまうのは自分だけでしょうか。政治的にいえばなんで観光立国といいながらこんな話が出てきたのでしょうか。怖くて観光なんかきませんよ、だから整備をしなければならない。その為にも働く外国人労働者を受け入れよう。とか話が続きそうな気がします。

 それ関連の株も上がりそうです。データの改ざんをした会社の製品も助かるはずです。不動産も動きますよね。そして首都機能の分散化もでてきます。まるで日本列島改造論みたいになりそうです。与党の得意とするすりかえと野党の好きな安全が手を握りそうな話を想像してしまいます。

 もしそれが本当に個々人の為になる開発投資ならいいのですが、今の色々な出来事から考えると信用できないですよ。結局、政治屋、役人、大企業のおもわくで政策のために怖いデータが使われるのが怖いです。地震には敏感な日本人をビビらせるには十分なデータですから、切に悪用はしないでくれ、本当に危険なところに金を使ってくれ祈るしかありません。よく見て行きましょう。

 

 

 

病院、混んでる

今日は高齢の親父を連れて病院に行きました。先日、倒れて救急車で入院し、幸い退院できたのですがその後の検診ということです。結果は良かったのでひとまずは安心しました。

病院は総合病院ですので、人が混み合っていました。予約していましたが2時間半かかりました。その間、人がきれることがなく、まるで駅の改札口のように次々と人が行き交います。こんなに病院にかかる人は多いんですね。やはり高齢者の方が圧倒的に多いですね。自分も親父の付き添いで来ていますが、他の高齢者も一人より2人連れが多いのは介護の方、家族の方なのでしょう。

今、町中にこんなに人が混み合うところはないですね。デパート、スーパー、コンビニ、役所等人が行くところはいっぱいありますが、こんなに混み合うところはないでしょう。これが日本の現実なんだとあらためて思いました。しかし病院の職員たちは慣れたもので、あのたくさんの高齢者をこなしていきます。そして高齢者も慣れたものです。

自分も還暦すぎなので年寄りなのですが、こうやって親父やお袋を病院に連れてくることで今のシステムに慣れて行くのだなと感じました。しかし病院は楽しくない場所です。そこでどんなに嫌でもお世話になるわけですから、何とかあの中でもちょっとぐらい、ほっとできることが出来ないものかなどと考えて時間を過ごしましたが良いアイデアは浮かびませんでした。

自分も今は何とか健康で生きていますが、そのうちにはお世話になることもある訳ですから今からこの長い待ち時間や病気になってしまった時の気の持ち方、対処方法を考えていけということなのでしょう。つらい現実ですが仕方ありません。なんせ人生100年とか言っていますからね。生きていくのはたいへんだ。

 

 

 

 

どうなっているんだ

どうなっているんだろうか?スポーツの団体、協会ひどすぎるね。相撲、レスリング、アメリカンフットボールとこの半年ぐらいの間で次々と不祥事続きだ。ワイドショー的にはおもしろいのかもしれないが、笑えない話ばかり。時が過ぎ、嵐が過ぎるのを待っているかのようにしか見えない。

どれもイジメ、暴力、セクハラ、パワハラ、ルール無視とまるで無法地帯のようです。今回の日大のアメフトの件は上からの指示とはいえやったことの責任はまぬがれないが、上の責任逃れの発言や態度は本当に見苦しい。きっと想像するに今までの間、ずーとああいう生き方に疑問を持たなかった人生なんでしょう。

スポーツの世界だけでなく、今の社会全体がむかしの日本なら恥としか思えないことを許してしまっているからなのだろう。日本は恥の文化が行き過ぎて、反動で今のようになってしまったのだろうか。失敗すること、間違えることは恥ではないが、人をおとしいれること、権威の傘に隠れて下のものいじめること、性差別は確実に恥じるべき行為である。

スポーツの世界では野球の大谷君みたいに現状に満足せずチャレンジを続ける人もいる。たいしたものです。それと逆に恥を繰り返すスポーツ選手や政治家、大企業のデーター改ザンなどはどんな価値感をもって生きているのだろうかと思います。

それとどの不祥事でも第三者委員会をたちあげるようですが、彼らが頼んだ第三者委員会では信頼出来るのでしょうか。それしか方法がないのでしょうか。まず、かかわったものが良いも悪いもなく、一度全員がやめることから立ち上げていくほうが良い気がします。中途半端な政治家や政治家くずれ、天下りを繰り返している人達、それにしたがっているいいなりのOB、知識人そんな人達に任せても、又同じような事を繰り返すだけです。

本気で変えていく気のある人を周りが応援していくしかありません。看板の書き換え、同じような有力者達ではスポーツでも政治でも大企業でも凋落していくことになるのではないかと考えます。他の国のやりかたではなく日本のやり方でけじめをつけたいものですね。

 

 

 

心のことも忘れずに

中国では2035年というから17年後に自動運転だけの自動車の都市ができあがるのだそうだ。世界の自動車メーカーや関連業界も当然参加していく。シンガポールではすでに色々な未来技術が国全体で社会実験可能となっているので各メーカーが進出している。スウェーデンでは現金を持ち歩かない社会ができている。

技術の進歩はわからないうちに世界で進んでしまっている。まだ先のことと思っていたことが半年後には常識となり、今までの常識は非常識となる。日本も含めてだが何か忘れていないだろうか?人間の為につくる社会ではないのか?AIに市民権が与えられてAI有利のシステムが出来ているのだろうか?まさにクエッションである。これらの先進技術をけん引する国々(日本も含めて)は人間をどう考えて幸せに導く理念があるのだろうか。

昨日のニュース番組でメジャーリーグのエンジェルス大谷さんが注目を浴びているが、アメリカのある記者がベンチでの彼の行動にスポットをあてていた。それはメジャーの選手がヒマワリの種をはきだしているのに対して彼は紙コップに捨てていた。その行動を彼の人間性の紹介としていた。これは実家の子どものころからの躾だと思うが、今の日本はどうなのでしょうか。昔と同じように継続していてほしいのですが。外国の親は躾なかったのでしょうか。

最近は日本でも歩きスマホや電車内での飲食などが目立ちますから、気をつけたいものです。やはり心の問題はおきざりにしてはいけません。AIに任せるのではなく人間が解決すべき問題です。人間が作るものはAIも作れるはずです。だからこそ人間がもつ感じ方、味があるとか、あいまいさ、バカな行動なども、スル―しないで考えてみることも必要なのではと思っています。

 

 

コーヒータイム

この間テレビでコーヒーの話が取り上げられていました。自分もコーヒーはお茶より飲んでいます。いつ頃からこんなに日本でメジャーな飲み物になったのでしょうか。番組ではファーストウェーブからセカンド、サード、今はフォースウェーブなのだそうです。

子どもの頃はネスカフェのインスタントコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。あれが普及期だったんでしょうか。宣伝は違いがわかる男というフレーズを記憶しています。それから学生時代になると喫茶店、純喫茶に友達とたむろして過ごしました。何かちょっと大人になった気がしました。

その次は会社に入ってから、現場でも休憩室でも自動販売機の缶コーヒーをやたらと飲んでいました。自動販売機の普及もすごい勢いがありました。そしてスターバックスやドトール、タ―リーズなどのコーヒーショップの時代がきて、コンビニのコーヒーも定番になりました。

自分たちはコーヒー好きにされたのかもしれませんね。最近の商店街にはお茶屋さんは少なくなりましたが、コーヒーの焙煎店はどこでもみるようになりましたね。今度は味だそうです。当たり前ですが、あまり有名な産地でないところの貴重な豆を商社が開拓しているそうです。自分などはコーヒー好きですが味音痴なので申し訳ないが飲んでみたいとは思いました。一回はね。

コーヒーや紅茶が日本で広まったのは明治のころだと思いますが、自分の興味はその時コーヒーカップを作った日本の窯元がいたことに興味をそそられます。それまでは湯飲み茶わんを作っていた職人さんが、どんな気持ちで作ったのでしょうか。コーヒーカップの歴史は調べてみたい。今は残念ながら思っただけですが、現場にいってみたいです。

そういえばNHKでなまえの話をしていました。コップとカップの違いのことを話していましたが英語だとカップと発音しますがオランダ語ではコップというそうで、日本では鎖国時代に言葉が入っているものはオランダ語が多いのですかね。カップは持ち手のあるもので、コップは筒状のものだそうです。あまり考えてみたこともないのですが色々な観点でみると面白いものですね。

価値について考えてみた②

つい最近、東大の学生食堂の改装で東大出身の画家の壁画が捨てられたそうだ。金額は1000万相当と言っていたが豪気なものだ、さすが東大?

捨てる指示を出した人も、解体した人も、見ていた人もその絵に価値を感じなかったのだろう。もし価値を感じる人がいれば捨てるなら自分が貰っても良いかとかの申し出があるだろうから。これが世間的に有名な絵だと違ったのかもしれない。自分も無学でその画家のお名前は存じ上げなかったので、彼らと同じだが対応は違ったと思う。もう少し確かめるだろう。

しかし価値と言うのは不思議なものだ。それを必要とする人にとっては金にいとめをつけないし、不要な人にとってはゴミ同然となる。これがその人の趣味、感性などの内的要素から欲しいという価値がある場合と世間の金銭的価値をつくる認める組織でつけられた価値なのかが解らなくなっているのが難しいところだ。

本当の価値は人それぞれで違うのに、みんな同じ価値の基準を押し付けてはいけないと思う。それが裸の王様の始まりだから。でも今回のケースは昔からそこに展示されていたというから、配慮のなさは感じてしまいます。題名は絆といっていたので当事者たちにとっては絆という価値ができるかもしれませんね。

世の中では生きて行く為に必要な価値を取引して暮らしているのだから、価値ということをもっと考えた方が良いのですね。ただ誤魔化される価値も色々ありますから気をつけなくてはいけないですよね。世界的な価値であると思っていたノーベル賞もおかしな行為をするし、おかしな候補者の名前も出ているしね。やはり価値については自分自身で、何に値があるのかを決めて生きて行くことのほうが幸せなんじゃないだろうか。金にはならないけれど精神的にはそのほうが、大きな価値を得られる気がします。

 

 

 

たいしたもんだ。

4/6のブログで松坂投手の先発登板の時にパワーストーンをつけていて、それがターコイズ(トルコ石)だったということを書きました。ターコイズは鮮やかな青色のイメージから宇宙をつかさどる石と言われていて、強い守護のパワーがあり、身につける人に勇気と行動力を与え、自己実現を達成させる力もあり、注目されるときに最適なのだと書きました。かなり目立つ石です。

それ以来つけていませんね。やはり松坂クラスの修羅場をくぐりぬけたつわものでもあの時は何かに頼りたかったのだろうと、臆病な自分は勝手に想像しています。もちろん邪推を確かめた訳ではないのでご勘弁下さい。僕など何か困ったことが起きるとすぐに弱気になり神頼みしていますからそんなことを思ってしまうのですね。

話は変わりますがメジャーに行った大谷君は凄いですね。投手と打者の二刀流はもちろんなのですが結果を出していますからね。今日は打者の日で、なんと4番でした。こういう23歳っているんですね。うらやましいとも思わぬぐらいの才能です。彼ぐらいの年齢の時はパワーストーンも必要ないのかもしれませんね。

還暦をすぎた僕等からみるとマブシイ限りです。体力の衰えを感じる今日この頃ですから若者が活躍している姿は、嬉しく、うらやましくなります。野球でも相撲でも卓球、フィギア、将棋でも色んな分野で若い人が活躍しています。特に最近は目立ちますね。世界で活躍できる体力、能力、技術をもっているし、精神力も素晴らしいです。

でも思うんですが、歳をとることも悪いことばかりではないと思いこもうと考えています。経験は人をずるくするのです。若い時のようなことはできませんが、何かに頼ってでも生き抜いていくことが必要なことを学びます。パワーストーンでもお守りでも、ジンクスでも何でもいいじゃありませんか。心が生きやすくなれば、しめたものです。そうだ今日は週末だしスポーツ観戦でもして酒に頼って、ゆっくり寝てしまおう。

 

 

「認める」を考える⑤ (ノーベル賞?)

 昨日ノーベル文学賞の延期のニュースがありました。その内容があまりにも衝撃的で、なんと選考委員の関係者に強制セクハラや情報漏洩があるそうです。ノーベル賞、ノーベルについて調べてしまいました。いったい権威って何なんでしょうか。

 今までブログで権威、認めることについて4記事ほど書きましたが間違っていないようです。最近、何かが変です。その核心はこれだと言えないのが凡人の悲しさですが、変だと言うのはわかります。こういう時にはわからないながらも変だと声をあげなければと書いています。批判というより怖いのです。だれかがうまく収めるのではいけないと思います。見直す必要が我々側にもあるのです。

 ノーベルはダイナマイトの発明した実業家で巨万の富を死後、後世に人類の役立つ発明発見に対し、その栄誉を表する素晴らしい賞だと思っていました。でも調べてみると真偽はわかりませんが、ノーベルは死の商人といわれるのを恐れて財団を設立したともあります。教えられてきたものとは、ちょっと違うのかもしれませんね。興味のある方は調べてみて下さい。

 バカな行為をした文学賞を選ぶスウェーデンアカデミーというのは18人の終身会員からなるそうです。まさに権威です。確か選考過程は50年後にならないと公表されないルールではなかったかと思います。この行為が公表されただけでもマシだったのですね。

 先日、ノーベル平和賞候補にアメリカのトランプ大統領や北朝鮮、韓国の両首脳があがるのではないかと報道されていましたが、フェイクニュースかブラックジョークであってほしいと思います。まだまだ彼の国のもとで苦しむ人々がどれほどいるのにと思うのです。凡人にはそれしかわかりませんが、そんな人達が選び、あんな人達が評される世の中の権威や認めるという行為は考え直す必要があります。

 間違った行為でもおかしいと言わない、思わないようにするのは不作為と言いますよね。それが世の中をもっとおかしくなってしまう前兆なのではないのでしょうか。何かを発するのは勇気がいり怖いです。でも、おかしいと思うことにはNOといいましょう。それなら自分にもできます。