「情報発信の仕方」

情報弱者なる言葉があります。これはSNS全盛の今ですから改めてどうのこうの言うことはありませんが、では使いこなしている方は情報をどんな風に役立てているのでしょうか?これについてもそれぞれの使い方がありますから、きっと有効に使われていると思います。

 なぜこんなことを書いているかと言いますと最近は馬鹿な動画をアップして店や会社に迷惑をかけているのが多いようなので考えてみました。彼らは自分より何十倍もSNSとかにかかわって生きている世代ですが、こんな使い方でしか自分を表現することを考えられないのでしょうか?不思議です。

 宝の持ち腐れと言う言葉がありますが、まさにこんなことなのでしょう。情報の発信の仕方以前の問題ですが、そのことの重要性に気がついていないのでしょうか。成人式の場でおふざけが過ぎる人達もイジメをしている人達も自分たちがSNSの中で記録されていると感じないのでしょうか?

 将来さらなる技術の発展があった時、この記録は何かに使われるかもしれません。例えば、昔やんちゃな人の方が成功するみたいなこと言う人もありますが、その種類によります。最近の悪ふざけは性根の問題だと考えると企業は自分のかかわりのある組織で彼らを使いません。そしてそれが調べようと思えば出来る時代なのです。 

 若気の至りでは許されない世の中になったことを気が付けないのなら、それこそが情報弱者なのではないでしょうか。働き手がないから大丈夫と思うなら大甘です。まじめに生きようと考えている人はいくらでもいます。多少のことならAIと組み合わせて仕事に取り組めば良い時代になっています。

 例えば腕力のない女性がAI、ロボットと屈強な男の仕事とされていることも出来るのが当たり前になってきます。以前にパワーステアリングができて女性のドライバーが増えたのと同じような事が起き始めています。女性、高齢者、外国人、障ガイを持たれる方など組み合わせることで新しい仕事の適性が生まれるはずです。

情報はアウトプットが、そして発信することが大切です。

 

 

 

 

「空気をよむについて」

会社を訪問すると時々感じるのは、その組織の独特な雰囲気を感じることがあります。何かあるんだろうがうまく説明できない雰囲気のことです。会社の組織は社長を頂点に上下関係があるのは当たり前で組織人としてはその方針に従って目的の達成をめざすわけです。

 そこには当然ノルマや社内のルールなどが存在します。ノルマがないとかいう事をうたっているところもありますが、それに代わるものがあるはずです。人の集団の不思議なところは個人だと出来ないが集団だと出来てしまうことがあります。個人だと責任の主体は全て自分ですが、集団だと会社組織というものに置き換えられてしまうからだと思います。

 この力はとても強力な推進力になりますが、とても恐ろしい力ということを解って欲しいのです。例えば戦争、独裁、政争もその力を利用して成立するし、身近なところではイジメです。個人対個人が個人対集団になると必ず仲間を作るとう心理が人にはあります。会話ができる人を探してしまうのです。そんなことかと思う人もいるかもしれませんが、こんな小さな始まりが戦争にまで結び付くのが浮世の恐ろしい所なのです。

 ひとつのポイントはある事柄についてマスコミなど報道が同じ意見になっているときです。もうひとつは見えないがある力、インフォーマルな組織での行動原理が不思議に思われない時だと思います。それは俗に言う「空気をよむ」という行動原理のような気がします。これは組織であっても上下の流れでうまく処理できません。

 不思議な力ですが小さな集団でも、人が集まると幼稚園や小学校でもあるのだと解すべきなのです。よく教育委員会が調査をすると「イジメはなかった」といいますが絶対にこの「空気感」が存在しているのです。見えない力、圧力は絶対あります。それを嫌な使い方をするのが政治家です。

 少しずつ、この「空気」について考えてみたいと思っています。

 

 

 

 

「ブログ、明日で一周年です」

 この一週間は体調を崩してブログが書けませんでした。歳と共にあちこちにガタがきているようなので注意しなければならないと反省しました。明日2/11でブログを書き出して一年が経ちます。書き続けることが出来るかどうか不安でしたが262本の記事を書くことができました。「ほっこりナビ」名刺と小商いからみた浮世の話というのがタイトルなのですが、あまりほっこりした内容ではありませんでした。

 内訳は名刺の話が138記事、小商いが70記事、その他が54記事でした。思い返してみると概念的な記事が多かったかもしれません。今年は具体的に書いていこうと思っています。そもそもブログを始めたのは歳をとっても浮世とのかかわりを持っていようと考えたことと、名刺の新しい形を広めたいとい事、小商いを選択肢に加えてもらいたいからの二つの理由がありました。

 自分は小商いで名刺屋を26年やっています。バブルのあとの失われた20年と言われた平成の時代をいきてきました。もともと独立志向で前にいた会社も15年いましたがその修行の一環という気持ちでいました。独立や起業と言っても自分にとっては大袈裟な事でなくあたりまえの事でした。

 残念なことに子供のころから組織は少々にがてで違和感がありました。強がりではないのですが起業してもひとりカンパニーしか作ることは考えていませんでした。ですから今も自分と妻がふたりでやっています。要は家業を作りたかったのです。その仕事を子供がみて自分もいずれはやってみたいと思うような仕事をするのが夢でした。子供はまだ継いでくれるかわかりませんが、期待はもっています。そのときはもちろん今の名刺屋でなく違う業種でもいいのです。

 小商いの生き方をいいなと思ってもらえればいいのです。今年は名刺と小商いについてもっと具体的に記事にしていくようにします。ブログを書くことで自分の頭の中を整理している様なものですから間違いとか正解でなく、こんな考え方もあるという理解をしてください。今年も頑張って書きます。

 

 

 

 

「初午って知ってる?」

 早いものでもう2月です。23日は節分、豆まきですが府中大国魂神社には毎年稀勢の里が来ています。今年は初場所で引退したのでどうかなと思っていたら来てくれるようです。また人がたくさん集まることでしょう。(ちなみに夕方の部です)

 節分はよく知られている行事ですが、22日の初午(はつうま)はご存知でしょうか?二月になって最初の午(うま)の日に行われる稲荷(いなり)神社の祭りのことです。日本の行事は五穀豊穣を願うものが多いのですがこれもその一つだときいた覚えがあります。(子供の頃)

 あまり一般にメジャーではないのですが、我々が子供の頃は(50年前位)まだ豊かではなかったのですが、初午には近くのお稲荷様を祀っている方が(有力者が多い)甘酒だったり、おでん、お菓子と色々近所の子供たちにふるまってくれていましたので、あちこちに行ってお相伴にあずかった思い出があります。今もやってくれている処はあるのでしょうか?

 聞くところによると府中はお稲荷様を祀る家が多い土地なのだそうです。むかしからの国府だった街ですから大国魂神社を中心に武蔵野の大地にも恵まれたからなのでしょうか。また豊かな農家も多かったのでしょう。江戸時代は徳川家康の保護もあったようです。

 行事とはおかしなもので記憶に残ったりするものと、全く忘れているものがあります。初午は自分のおなかの事情から忘れずにいますが、本当はもっと詳しく調べると面白い話題にできるのかもしれません。このおなかの記憶が悲しいかな凡人の現状です。

 話は変わりますが行事やしきたり、常識みたいなことは以外と明治以後のものが多かったりします。神代の昔から存在しているように思うのは間違いのようです。今常識といわれる考え方もそうなのです。戦前ぐらいに始まったことを大袈裟に歴史があるようにもったいぶっていることが多いのです。その時々の人々が都合よく使っているだけですから常識にとらわれず自分の考え方で生きるほうが気が楽です。

 

 

 

 

 

 

「許されちゃうの?」

 書きたくないと思いながらやはり書いてしまいます。数日前だったか新聞を読んでいると横浜事件の国賠訴訟(事件内容は書きません)が弁護団のミスで上告却下と言う記事が出ていました。単純ミスで書類の出し忘れだそうだ。

 厚生労働省では統計についての不正が発覚した。財務省の書類の改ざんも昨年あれほど問題になり、文部省でも他の省庁でも日常的に受け継がれているようだ。それに加えて役人や警察官、自衛官、教師といった信頼されるべき人々のセクハラ、パワハラ、モラハラという記事が後を絶たない。 

 昨年、安倍首相の森友問題ではしらを切った官僚が税務署長になり、奥さんの秘書は大使館への栄転というから驚きである。どうなちゃったんだ日本人と感じているのは自分だけではないと思います。政治だ、教育だと言う前に人としての根本的なものが崩れているのでしょうか。

 近隣で起きる国際紛争もダメなことはダメなのであると思います。相手の立場を考えてとかでハッキリいわないのは弱腰とかでなく日本的な丸めこもうとする態度が通じる時代だとまだ思っているのでしょうか。差別とかでなく国民の深層心理は相当切れていると思うのは間違いではないと思います。

 経済界では偽装や不正経理を何年もに渡ってやってきた大企業がTVでCMを自粛することはありません。マスコミも広告収入がキビシイ中、スポンサーにはモノが言えないと大衆は感じ取っています。だからTV離れが進むのも当たり前なのです。

 こう書いていると次から次と愚痴を書いてしまいますのでこの辺にしておきますが、要はたいがいのことは許されてしまうのです。我々のような小商いでささやかに生きている者はちょっとしたことで心に重荷を感じますが、感じることはないのです。前に書いたような国家的な失態さえ忘れてしまう時代なのですから。許されてしまうのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「サラリーマン川柳」

 サラリーマン川柳の入選作100句の発表がでていました。応募は43691句というからサラリーマンも中々粋なものです。自分も好きなので毎回楽しみにしていますがまさに世相を映すものです。女性や妻の強さが目立つのは今も昔も同じことでから人間の本質なのでしょう。

 今回はそれに加えて働き方改革やAI、世代間の差などの句が多く見られたようです。「ゴール前 延びる定年 老い越せない」などなるほどと思う秀作がいくつもあり、考えさせられます。

 日本人は昔から川柳やしゃれなどで浮世を風刺するのが好きなようです。「ジョウキセン たった四杯で 夜も眠れず」とか明治維新前にペリーが黒船で来た時も落歌があり伝わっているのですから大したものです。ちなみに蒸気船(黒船)と上喜撰(宇治の高級茶)とがかかっています。

 庶民が作っているとしたらホントにことば遊びのレベルが高い国民だと思います。俳句、和歌、落語、ドドイツなど言葉を主にした文化を大衆が面白がるというのだから素敵なことだと思います。世界に誇れる遊びではないでしょうか。自分も遅ればせながら言葉遊びを趣味にしたいと考えています。

 サラリーマン川柳のなかで「趣味探し 定年前の 大仕事」というのがありましたが、まさに数十年頑張り続けてきたお父さんたちの本音ですね。価値観が仕事を一番に感じた世代も組織から離れて自分を取り戻さなければなりません。定年の年頃を迎えたとしてもこれからまだ20年以上しないと平均年齢に追いつきません。

 人生100年の時代と言いますが大変な時代になったものです。残念ながら悠優自適な老後というわけにはいきませんので、せめて「ことば遊び」を趣味に浮世をほっこりと過ごして行きたいものです。

 

 

 

 

浮世の渡り方を考える

年末から新年にかけての記事をみていると時代がかわると皆誰でも言うけれど、どう変わるかは決め手がないようだ。予測なんていうのはそんなものなのだろう。その中に人間が150歳まで生きる可能性を書いた記事を読みました。技術や医学の発達はすごいものですが、死因はというと自殺なのだそうだ。恐ろしい話と思いました。何でも出来るからと言って置き去りにするものが多いのではないでしょうか。

 正月らしからぬめでたくない話ですが考えさせられてしまいます。技術はどんどん進み置いてけぼりをくらう人間という構図はまさかと思いますがありえます。人は便利に弱く、権力、金にも弱いのですからAIなどが操りやすい対象のはずです。知らないところで色々な事が進み始めている怖さを感じます。

 AIや他の先進技術の進歩は隠さず報道されたとしても、その意図はわかりません。誰が何のために使うのかが解らないと、とてつもないことになる気がします。自分の頭では解決できませんが、昔人間の自分としては笑われても「第六感」を大切にしようと考えています。

 そんな中で闘う名刺、小商いなどを通してよく解らない浮世を観察していこうと思っています。ままにならぬ浮世ですが、ここで生きているのですから生き抜く手立てをみつけるしかないのです。流されて生きる道もあれば、大船にのる道も、筏や小舟で生きる道もあります。

 どれが正しいかは人それぞれ違いますが、色々な例や経験は知っていた方が流されても息ぐらいはできるたしになります。何が正解か不正解はわからないのが浮世というものなのでしょう。浮世をわたるナビはありません。自分が考え、作る事しかないのです。この一年はそのことを出来の悪い頭で考えて行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

新年に

平成31年が始まりました。1/1には毎年早朝に大国魂神社に初詣に行きます。今年は少し遅れて出かけるとものすごい人が並んでいたのでお札を納め新しいお札を頂き帰りました。体調もあまりよくないので無理はしないようにしました。もちろん近くの神社なのでお参りは翌朝いくことにしました。

 1/25時ぐらいに起きたので用意して6時前に着くと門がまだ閉まっていて、その前に20名位すでに並んでいました。6時から開門でしたが知りませんでした。正月三が日はずーっと開いていると思っていましたが63歳になるまで知りませんでした。

 6時に開門して本殿前で参拝することができました。いつもとちょっと違う気持ちでお参り出来たような気がしました。それにしても知らないで過ごしていることは多いものなのだと思いました。勘違いや思いすごし、知らなければならないのに知らないでいることがどれほどあるのでしょうか。

 今年は知ったかぶりをせず、もう一度色々な事を見つめ直すようにしようと思います。歳をとると頑固になるようなので柔らかい頭でいられるようにしたいものだと考えています。歳は嫌でもとりますが少しでも柔軟な発想を受けいられるようにしなければ人生つまりません。

 新年はいつも計画をたてるのですが、なかなか思いどうりにいくことはないのが現実です。歳をとると色々な現実を受け入れなければなりません。良い事より悪い事の方が多いのも現実なのです。以外に大変な事なのです。それをじたばたしながら過ごす覚悟をするのが歳を重ねることなのでしょう。

 どうせ悟ることなど凡人にはできないのですから、あわただしくジタバタして格好悪くても生き抜くことにします。でもきっと良いこともあると信じて目の前のことを乗り越えて行こうと決めています。

 

空気感について思うこと

 今日で平成30年ともお別れです。何とか年越しの用意をして平成最後の31年を迎えることができそうです。平成のことはその年号が変わるときに振り返ろうと思います。今年最後のお話は「空気感」の話を書きます。

 「空気感」俗に言う処の場の空気のことです。なぜこんな話をするかというと今年は色々な場面で「空気感」を感じたことが多かったのです。その場の空気ってありますよね。解らない人には意味のない話になります。最初に申し上げておきますが空気が読めない、読めるの善し悪しの話ではありません。

 例えば職場、学校、同窓会、営業活動でと色々な場所で空気感の違うと感じる人に出会います。その時いつも思うのは、「なぜ、わからないのだろう?」です。腹立たしくも感じますが、有る意味うらやましくも思います。自分などは現場では人との空気感を気にし過ぎてしまいます。だから疲れます。

 自分にはとてもできない事なのです。世の中は不思議なもので気にし過ぎる人とそうでない人の割合が丁度よく出来ていると感じていたのですが、最近はその割合のバランスが崩れ始めたようです。色々な便利なツールが浸透したからでしょうか?我々のような敏感な心のものには住みにくい世の中になってしまったのでしょうか?それともバランスは又変化していくのでしょうか?

 今年は空気感の読めない人の年だった気がします。トランプ大統領をはじめとする世界中の政治指導者たち、ゴーンのような経済界のキレ者たちの不祥事・隠ぺい・虚偽、スポーツ界ではパワハラ・暴力と空気を読めないのか、わざと読まないのかわかりませんが、そのようなタイプの人達が注目された年だったと思います。彼ら、彼女らには敏感な人達を一生気づくことなどなく生涯を終えると思います。

 その人達が空気を感じずした今年の出来事が来る来年に良い方向へと進むことに期待をしたいのですが、どうなのでしょうか?と予測まで空気を読むのは滑稽です。きっと良い年になるに違いありません。そう決めて目の前の大掃除をします。新年は3日から書くことにします。良いお年をお迎えください。

 

 

 

 

 

 

愚痴を書いてしまいました

 昨日はクリスマスイブで振替休日ということもあり街はさすがににぎやでした。年末は府中のような東京都だが都心からちょっと離れた古い街でもいつもより賑やかで、それでいて都心のように人にぶつかる程ではなく丁度いいと思います。

 その中で気になることがいくつかありました。まず自転車ですが、最近のは電動アシストタイプが増えたのとかなりのスピードで歩道をはしっていることです。お母さんたちが子どもを乗せて頑張っているのはとても素敵ですが、周りは気にしないといけません。年寄りだけでなく若い人とぶつかったって大けがをさせることになります。

 それと電動の車いすにのる高齢者も多く見かけるようになりました。外に出るのは良いことなのですが、電動なので音が静かで知らないうちに後ろや横に来ている時があり、ドキッとしたことが何度かありました。国や自治体、メーカーも何か考えないといけないと思います。せっかくの良い商品なのですから。

 車イスを見ていると歩道が狭かったり電柱が邪魔だったりとインフラの遅れを感じてしまいます。バリアフリーなどないに等しい気がします。歩道の傾斜もかなりあります。自分が歳をとったので気がつくのですが歩きにくいし、車イス、自転車、高齢者のどれに対しても考えられていません。道路の工事を繰り返しやる年末、年度末でも変わる事をみたことがありません。

 最近はキャリーバックをひいている人が増えました。むかしから思うのですが、あのキャスターの音はなんとかできないでしょうか。やわらかなゴムキャスターとかでは摩耗がはげしくてだめなのでしょうか。出来ればタイヤみたいにしてほしいものです。色々なハイテク技術の競争より日本人が得意とする工夫をしてもらいたいのです。

 こんな日があってもいいやと愚痴ばかり書いてしまいました。年寄りのグチですが来年は自分で改善方法を考えてみようと思います。