自然体?

自然体という言葉は、高校の柔道部で初めて教えてもらいました。肩の力を抜いて、すうーっと立つ基本姿勢のことです。その時は何とも思っていなかったのですが中々むずかしいと知りました。相手と組み合えば身がまえますし、柔道は自然体の相手を崩さねば技をかけられません。でも、最終的には自然体に戻り、礼をして終わります。何事にも区切りがあり、その初めと終わりは自然体ということなのでしょうか。講道館は自他共栄、精力善用が根本理念ですから、加納治五郎先生は大したものです。

自分が小商いをする際に屋号を自然堂にしました。これは自然体という概念が好きだったからなのですが、よく自然食品の会社や整体の治療院と間違われてしまいます。その方が儲かったかもしれませんね。でも名刺屋です。自分があるがままの状態でいれるしくみ、場所という意味でつけました。あらためて難しいと感じる今日この頃です。

何年か前に読んだ本、篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」のなかで自然体について書かれていたことがあります。「誰か式、誰か風ではなく、その人にしかできない生き方を自然体という」とありました。著者は題名どおり103歳で現役の芸術家であるが、まさに自然体を語るにふさわしいと感銘しました。まだまだと思い知らされるばかりでした。

自分が思い描いた「あるがままでいられる場」をつくるのは大変です。世の中、色んなことが起こり、思いもよらぬ事の連続で、あたふたするばかりの毎日ですが、「不安常住」「無所住心」「事実唯真」(森田正馬先生・森田療法)と心に受け入れることで、とにかく小商い、スモールビジネスの名刺屋をつづけています。

103歳で現役と言う人からみれば、孫のようなものですから、まだまだ弱音をはきながら凡人のチャレンジを続けて行こうと思います。肩の力を抜いて、すうーっとは立てていないかもしれませんが自分式の自然体で。

 

 

 

 

 

見方を考えてみよう

物の見方は人、国で随分と違います。当たり前のことですが忘れがちな事だと思います。今読んでいる本(日本語教のすすめ・鈴木孝夫著)の中に出ていたのですが虹の色といえば七色が日本では当たり前なのですが、西欧の多くは五色と認識している人が多いのだそうです。

 所変われば品変わると言いますが、実際に見えるものさえ差があります。不思議ですよね。りんごといえば赤を想像しますが、フランスでは緑なんだそうです。自分たちの意識と全く違うことが多々あります。だから自分の出来ることや想いなどはもっと相手は勘違いしても仕方がないのです。

 何度も確認しながら相手に伝えることが大切なのです。それは名刺というビジネスツールの役割だとも考えています。相手が自分のことをきちっと理解してくれる努力はすべきです。時代がどう変わろうが必要なことなのです。これからは日本人だけで暮らす社会ではありませんから尚更、相手に何が出来るのか、したいのかを伝えることは意味を増してくるのです。

 そんな社会の今こそ名刺というアナログなツールを工夫して利用していかねばなりません。何と言っても名刺交換の良い所は余程の変わり者でなければ受取ってくれます。そして精読率高いツールなのです。今までのような住所録ではダメです。また管理を目的とした名刺も効果は定かではありません。

 個人が輝く時代が令和の御代にしなければなりません。だれも100年生きても助けてくれそうにありません。自分がなにかを表明して相手に伝えることから始めましょう。そういう個人が既に増えています。見えない流れの中で社会は変化していきます。気づいた時はもう変わってしまっているものです。

 

 

 

 

 

 

 

名刺作成の考え方②

 名刺はどういう風に変わっていけばいいのでしょうか?それとも無くなっていくのでしょうか?名刺屋としていつも考えていることをまとめてみようと思います。名刺屋ですからなくなったら困るのですが現状をみていると十分にありうることだと思います。

 名刺の役割の大きな部分である初対面の挨拶のときの名刺交換ということが減っている気がします。昔なら名刺を交換しておかないと連絡先も事業状況を確認するのも始まらず、ビジネスにならなかったのですが今は違います。ネットやSNSでググれば済んでしまいます。

 便利になるのと同時に手放したものも大きい気がします。SNSで何万人とやり取りする場も大切ですが、数人でも安心できる仲間と取引をしあうことも人生の楽しい時間のように思います。時代はどんどん変わりますが、それとは別に変わらぬものがあるのも豊かな気がします。まさに「不易流行」ということですね。

 名刺屋として思うことはこれからの名刺は会社から受取るのではなく自分が主体性をもって作るようになるほうが良いと思います。会社は個人と雇用契約を持つ際に基本的に会社で業務を行う際の名刺のしばりをはっきり規定しておき個人が作った際に補助すればいいのです。交通費や定期代とおなじ収支にすればいいのです。

 個人が自分で名刺交換をしたくなるよう名刺を作る方が良い名刺になると思います。会社は内容を承認すればそれを使い業務をすることを認めるようにすればいいのです。もちろん会社が取得した認証や会社のロゴなども承認したら使用を認めるようにした方が管理しやすいのではないでしょうか。

 名刺を作るのも個人で製作した方が真剣に内容にこだわるはずです。社会全体がそういうのが当たり前の風習となれば今のように便利だが味気ない社会でなく、人と人が会うことが楽しみになるのではないでしょうか。今日会う人はどんな工夫をした、センスの人だろうかと思うようになります。その自分の実際に出会った人とのつながりが始まって行けばなんと素敵なことでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

名刺作成の考え方

今まで名刺は自分で作るというイメージはなかったと思います。たいがいの場合は就職すると総務課や人事課で業者に依頼し、定番のデザインのものが出来あがってきます。もらう側は名前や部署などが間違っていないか確かめる程度の認識ではないかと思います。それが当たり前のようになってしまいます。

 それで良いのでしょうか?今までならそれで十分だったかもしれませんが令和の時代はそうはいかないと感じています。名刺はビジネスマンにとっては必須のアイテム、ツールです。そのことが変わり始めているのかもしれません。なぜなら営業マンが不要なしくみが出来てきています。恐ろしい世の中です。

 名刺は会社や所属する人の証明みたいなもので、初対面や新規訪問、挨拶などのときに名刺交換がおこなわれて仕事自体が前に進むという営業行為に欠かすことの出来ないビジネスツールなのです。でも今はそれが崩れてきました。パソコンやSNSで探した取引先や販売先と取引することも多くなってきました。この場合、名刺はあまり意味がないのです。

 それでも個人同士が会わないで取引がすすむだけではありませんから重要なアイテムであることに変わりはありません。会社対会社の取引なら随分とやり方もあるようですが、個人の介在することが重要な場には個人の名刺が意味を持ってくるのです。名刺のありかたも当然変わります。

 今までのように会社から渡されたものではダメなのです。大体の場合、会社のロゴ、ISO等の認証マークが記載され洗練された会社の名前のロゴが入った個人の氏名が小さな文字で書かれているものが多いはずです。なぜなら会社と会社で取引するので個人のことは二の次で会社の社会的信用や認知が名刺作成の基準になっているからです。

 これからはそれでは通用しない世の中になります。大きな企業の信用は安定していて社会的道義にのっとって利益を蓄積することですが、昨今は検査偽装、数値偽装、改ざん、正当性があるかのリストラなど大きな力でやってしまうのが大企業のイメージなのではないでしょうか。

 これを見て実感しているのがちゃんと生きたいと思う大多数の日本人なのではないでしょうか。そのうねりはうまくは表現できませんが何かを変えていきます。それが浮世というものだと思っています。名刺もそのうねりの中で変わって行く運命だと思います。

 

 

 

 

名刺屋として考えること②

今回は「場」について考えてみたいと思います。「場」とは名刺を使う場のことです。なぜ、こんなことを言うのかといえば最近きものの商標の問題について書きましたが、良く考えてみると「きもの」文化は欧米化という近代日本の流れの中で「場」を創ることが出来なかったものの一つと感じているのですが、名刺もそのような気がするからなのです。

 きものは洋風化のなかで成人式、結婚式などやイベントなどで日本を演出する際に使うように見受けられます。いわゆる「特別な場」です。日常ではなくなってしまいました。原因は何でしょうか。開国維新から国をあげて洋風化してきたことが最大の原因ですが、それだけではありません。着る人間が、そのほうが活動するのに便利で動きやすくイメージがいいと感じたからです。しかも安い。

 それまで着物を取り扱う店、呉服屋さんは街からどんどん消えてしまいました。なす術はありませんでした。時代とは恐ろしいものです。最近ではカメラ屋さんも街から消えてしまいました。実は私どもの関連するお店である印刷屋、印鑑屋、文房具屋さんも消えかけています。

 なぜでしょうか?大衆に使う「場」を提供していけなかったからだと思います。すべての業界が昭和の高度成長やバブルに浮かれていたり、平成の技術革新を真剣に商人が考えていなかったのではないかと反省しています。景気にばかり気をとられ本来の自分の扱う商品・サービスの利用される「場」創りに手を抜いてしまったのではと考えています。

 令和という新しい時代はネット、SNS、AIという恐ろしい社会が物凄い勢いで浸透しています。高齢化もまったなしです。そのなかで名刺という物が生き残るには「場」をいくつも創るしかありません。これは時代の中で創るしかありません。それには名刺というアイテムを再度考え直すことが要求されます。名刺を使う「場」を本気で作るしかありません。

 

 

発信の仕方?

「きもの」という言葉がアメリカで補正下着の名前として商標登録されたというニュースが報道されていました。こころ穏やかでないのは着物に携わる人達、会社でしょう。中国だけでなくアメリカでもこんなことが起きるんですね。詳しい内容は読んでいないので成り行きを見守りたいと思います。

 このニュースで思ったことは日本の伝統文化や日本のイメージを海外ではどういう風にとらえているのか?ということです。昔は日本といえば「フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ」というイメージだと良く言われていました。日本政府も随分と宣伝はしているのでしょうが思いどおりの成果は見られない気がします。もしそんなことないというならば商標や知財などのことで国が必死になっているはずですから。

 事が起きてから問題にするのは後手後手の証ですから。なぜでしょうか?自分が考えるに日本人の自信のなさなのかもしれません。自分をもっと積極的に相手に知ってもらう努力をしないといけないのに、日本的奥ゆかしさを美徳と考えているのではないでしょうか。

 日本には思ったより凄いポテンシャルがあるのです。言葉にしたって英語や中国語をならわせようと国は考えているように見受けられますが、母国語の日本語をきちっと大切にすることをしたうえで政策をすすめるべきなのです。一億以上の人々が共通語として話す言語は世界でも有数です。ちなみに世界での言語は6000種類以上と聞いたことがあります。まずそこからの気がします。

 今回は着物でしたが他にも色々なものがあるはずです。それをどう守るかでなくどう発信していくかが日本人としての一番の問題なではないかと思います。その発信する一つとして「闘う名刺!」も使っていただきたいと考えています。

                                

 

名刺屋として考えること①

小商いとして始めた名刺屋ですが何とか27年生き延びています。昔は販促品や文具、印刷物などの割合が多かったのですが今は7割が名刺関係の仕事なので、まさに名刺屋です。妻と自分とふたりでやっているからこそ続けられたのです。最初の創業から目標は家業をつくることでしたので良いのですが、もう少々儲かるはずでした。

 名刺屋として考えることが多くなりました。昔と様変わりしてしまったことが増えてきました。自分の歳のせいもありますが平成から令和の流れの中で名刺というビジネスツールも変わっているのです。おかげさまで名刺というビジネスツールはいまだに存続していますが、これからはどうなるかわかりません。

 名刺は人間関係が存続しているからこそ価値があるという性質があります。人と人が初対面で自分の持ち物を交換しあう訳です。すごいことだと思います。しかし、今はネットで消費者が品物を買うだけでなく、企業間での取引がやり取りされてしまいます。そこには人の顔がみられません。

 そこでは名刺などで人と仕事をする為の関係をつくるより価格が中心になっています。価格だけならネットで充分です。説明やフォローアップというのもネットでここまでですと記載されていればいいのですから。当然企業も人を雇うより安上がりということで安易な方向にながれていきます。それが現実です。

 それでいいのでしょうか?そんなことをずっと考えています。商いをしていて楽しくありません。もちろん古い考え方というのは承知しています。会社というのはかかわる人達を幸せにしなければつまらないと思っています。それこそが会社の価値です。今までと同じやり方では存続できないのは小商いをして生きている者として十分過ぎるぐらい解っています。

 そこで提唱しているのが小商いのすすめです。個人が主体になってやることが令和の時代の主流にしたいのです。まさに価値の多極化です。企業に入ることばかりが価値ではなく、小商いやWワーク、起業といった価値を大切に思う人が増えることが大切なのです。それを応援する名刺が「闘う名刺!」なのです。

 

 

 

「なれ」を恐れろ

長年小商いをしていますと「ナレ」というおごりが出てくる時があり、その都度反省しています。ありがたいことに創業(27年前)に飛び込み営業をして出会ったお客様といまだにお付合いさせて頂いております。まさに感謝です。長年お付き合いをさせていただいているからこそ「ナレ」はいけません。令和という時代になって初心を忘れないようにやっていきます。

昔は飛び込みの営業でどれだけ名刺を配ったでしょうか。それなのに今はどうでしょう、継続のお客様との取引をしていると名刺を配りまわっていた時代に考えた「闘う名刺!」も工夫に欠けてしまったかもしれません。もう一度見直してみようと思い、今新バージョンを創ろうと頭をひねっています。

「なれ」とは怖いものです。特に小商いを生業として1人または家族でやっている場合は忙しさにかまけて改善、工夫を後回しにしてしまうことが多い気がしていています。家族の助言もないがしろにしがちです。健康についても過信、慢心していることもあります。まさに俗人の極致の自分を感じています。

「闘う名刺!」は自分がライフワークとして広めようとしている名刺の概念なのです。名刺は名前や連絡先を刷り込んだ単なる小さな紙という認識や、名刺は会社が作ってくれるものという認識を変えたいのです。名刺は個人が工夫して創るもので、その紙面には個人の想い、出来ることを言葉化して表明しているという概念に変えたいのです。

そうすることで個人が輝ける時代になるひとつの「しかけ」になるのだと信じています。それなのに「なれ」に平気になっていてはいけません。歳は年々、嫌というほど感じますが年寄りの図々しさを武器に新しいことに挑戦したいと思っています。もう今更かっこよくは生きれませんからね。

 

 

 

 

 

 

 

整理、整理あああ

六月のこの季節は五月に決算の提出や税金などの支払が何とか終わり、書類関係や名刺の整理などをする時期にしています。ちょうど梅雨で外も雨なので、しょうがないとあきらめもつくのでそうしています。

毎年のことなのですが整理をしながら反省しきりの日々です。どうして、こうも貯めこんでしまうのでしょうか。お金ならありがたいのですが未整理の色々な書類、資料などばかりです。年々増えている気がしてなりません。自分では良く捨てる方だと思うのですがたまってしまいます。

整理することで話題になっている方が多いのもわかる気がします。そのなかで確か、ときめかないものは捨てるというのがあったと思います。確かに使わないものや、いつか使うかもと思う物まで取っておいたらきりがありません。思い出は心にとどめて物は捨てるしかありません。

名刺も昔のものは捨てにくいものですが、商売柄資料として必要なもの以外は捨てることにします。本当に付き合いのあった人以外で名刺交換をしただけの人も随分と多いことに気がつきます。名刺をデータベースとして使うという会社がありますが本当にコマーシャルのように社内で使われているのでしょうか。

名刺屋としては利用されて名刺の価値が上がれば嬉しいことなのですがどうでしょうか?むしろこれからの名刺はデータベースとして扱われることより名刺としての個性を組織の中で出せるかどうかが大切な気がしています。会社のネームバリューと個人の個性が反映される名刺が広がる事を望みます。

令和という時代は個性がいきる時代になると確信しています。そうでなければ日本は沈む国になっていきます。個性とは自分に何が出来るか、したいのかを相手や社会に伝えなくてはなりません。そんなことを考えながら整理をしているのですが、まだまだ終わる気配がみえないので溜息がでます。

 

 

 

 

 

 

名刺の効用

新聞のコラムに漢の劉邦の名刺の話がでていました。劉邦はもともと田舎の下級役人でしたが、その地方に有力な豪族が泊った際に土地の有力者たちは手土産として金を持参したそうだが、劉邦は無一文であったので会ってもらえるはずがありませんでした。その時、劉邦は謁(名刺の原型)に無一文のくせに「銭万をもて賀す」とウソを堂々と書いて差し出したのだそうです。そして会ってもらい有力な豪族は見どころのあるものとして自分の娘を嫁がせたと言うのです。

名刺には姓名だけでなく、時には相手に対する挨拶や要件なども書き添えられていたのだそうです。その名刺を発明した中国も30年位前はビジネスマンでも名刺が普及していなかったと書いてありました。そして中国も世界の国々と関係を広めていく中で名刺が改めて普及しています。

日本は良い発明を工夫するところ、自分のもにし発展する技術に優れています。今の名刺はどうでしょうか?デザインや安さに目を奪われて名刺本来のもつ効果をないがしろにしているようです。名刺は名刺交換をしてこそ効果を発揮できるビジネスツールです。そしてそこには何が必要なのでしょうか?

まさに劉邦ではありませんが自分の存在を、出来ることを、やりたいことを伝えるということなのです。しかもこのネットの時代に人と人とが初対面で相手の持ち物と自分の持ち物を挨拶しながら交換しあうという風習なのです。これは思いのほかスゴイことなのです。そうは思いませんか。

令和という時代は個人が個人として主張していかねばやっていけない時代になると考えています。それは昭和、平成が組織のなかの個人であったのとは真逆で個人の為の組織、団体以外は認められない世間の空気になるような気がしてなりません。それは自分の想像の世界だけでないと感じています。そうなった時、名刺の効用は重大なポイントになると思います。さあ、一緒に名刺を、あなたが令和を「闘う名刺!」を考えていきましょう。