今時のとまどい

 甲子園の西東京大会で母校が勝利しました。自分は柔道部でしたがやはり気になるものです。今年はシード校ですのでちょっと期待してみています。がんばれ後輩たち。我々の世代とは45年以上離れて頭の程度はずいぶんと差がついたが爺さん達は応援しております。

 後輩と言えば変わった男がいて、いまどき携帯を持たない主義だそうです。深い意味ではなく、せからしいのが嫌なのだそうです。それで過ごしているのだから良いのですが飲み会の連絡がとれないのは弱ったものです。多少は世の中に合わせるのも必要だと思うのですが。

 時代と言えば、仕事先の病院の現場に掃除するロボット(ルンバの業務用みたいなもの)が導入されました。清掃をしているかたに聞くとあまり好意的にはとっていないようでした。AIに対しての嫌悪もあるようですが、実際に手間は増えたのだそうです。

 子供や老人もいるので、ほっとき放しにしていることもできず気にかけねばなりませんし、二階などに移動する際は台車にのせて人が運んでいるそうです。ただ対外的なアピール効果はあり、子供たちが写真を撮ったりするのだそうです。

 経営者はAIを導入し効率を良くするコスト的にも計算されているのでしょうが現場はそうはいきません。AIに職場を奪われたり、仕事ぶりを比較されたりするわけですからたまったものではありません。これが新時代なのでしょうか?ならば前出のがんこな後輩のことも少しはわかるような気もします。

 政治家、経営者、役所などがAI導入を当たり前の世の中として動き出したのは危なくないのでしょうか?本当に人の幸せを考えた方向なのでしょうか?便利なら、効率的なら良いというだけの浮世は面白いものではありません。よくよく考えてみたいと思います。

 

 

 

 

Wワーク・副業・小商い

これからWワーク・副業・起業などが盛んになるのでしょうか?政策として企業に対してもそれを奨励し始めているようです。継続した政策なのでしょうか?大きく二つ思ったことがありますので書いておきます。

一つ目は自分が賛成ということなのですが、これはあくまで短期のことではありません。長期にわたり社会が個人の個性を大切にして、それを応援してくれるシステムになることを望みます。今のようにどこかの大きな組織の下にいることが目的となる浮世では息苦しい日本が又復活するのではないかと思います。

二つ目は社会制度がもたないから政策として奨励し始めたなという思いです。人生100年と言いながら年金はあてにならず、色々な役所がデータ改ざんをしても誰も責任をとれないでいます。そして有効な代案はでてきません。世界情勢で他国の企業と渡り合うためには優秀といわれる人材を採用しなければならないので普通の人はWワーク・副業・起業もしてもかまいませんよということだと考えます。

大きな企業にいても今までのように人生は保証されなくなりました。この不安定を隠すための政策だと思います。でも我々は生きていかねばなりません。この政策を十分に利用することを考えたいものです。自分の経験から言えることは給料として少額でももらい、そこでは年金、税金、保険、雇用保険、健康診断などの事務手続きをやってもらうと割り切り、責任の仕事をこなせばいいのです。

役職や過分な報酬は期待をせず一つの安定した収入源とすればいいのです。その他にWワーク・副業を小商いとしてやるというのが一番いいのです。できるだけ2社、3社と務めるWワークでなく、小商いを始めることをおススメ致します。小商いは若いうちに会社で働くのを修業と考えて30代ぐらいから小商いを始めればいいのです。今の時代はネットがあります。若い世代なら十分勝ち目はあります。ぜひ小商いの盛んな国にしたいものです。

 

 

 

 

 

自然体?

自然体という言葉は、高校の柔道部で初めて教えてもらいました。肩の力を抜いて、すうーっと立つ基本姿勢のことです。その時は何とも思っていなかったのですが中々むずかしいと知りました。相手と組み合えば身がまえますし、柔道は自然体の相手を崩さねば技をかけられません。でも、最終的には自然体に戻り、礼をして終わります。何事にも区切りがあり、その初めと終わりは自然体ということなのでしょうか。講道館は自他共栄、精力善用が根本理念ですから、加納治五郎先生は大したものです。

自分が小商いをする際に屋号を自然堂にしました。これは自然体という概念が好きだったからなのですが、よく自然食品の会社や整体の治療院と間違われてしまいます。その方が儲かったかもしれませんね。でも名刺屋です。自分があるがままの状態でいれるしくみ、場所という意味でつけました。あらためて難しいと感じる今日この頃です。

何年か前に読んだ本、篠田桃紅著「103歳になってわかったこと」のなかで自然体について書かれていたことがあります。「誰か式、誰か風ではなく、その人にしかできない生き方を自然体という」とありました。著者は題名どおり103歳で現役の芸術家であるが、まさに自然体を語るにふさわしいと感銘しました。まだまだと思い知らされるばかりでした。

自分が思い描いた「あるがままでいられる場」をつくるのは大変です。世の中、色んなことが起こり、思いもよらぬ事の連続で、あたふたするばかりの毎日ですが、「不安常住」「無所住心」「事実唯真」(森田正馬先生・森田療法)と心に受け入れることで、とにかく小商い、スモールビジネスの名刺屋をつづけています。

103歳で現役と言う人からみれば、孫のようなものですから、まだまだ弱音をはきながら凡人のチャレンジを続けて行こうと思います。肩の力を抜いて、すうーっとは立てていないかもしれませんが自分式の自然体で。

 

 

 

 

 

見方を考えてみよう

物の見方は人、国で随分と違います。当たり前のことですが忘れがちな事だと思います。今読んでいる本(日本語教のすすめ・鈴木孝夫著)の中に出ていたのですが虹の色といえば七色が日本では当たり前なのですが、西欧の多くは五色と認識している人が多いのだそうです。

 所変われば品変わると言いますが、実際に見えるものさえ差があります。不思議ですよね。りんごといえば赤を想像しますが、フランスでは緑なんだそうです。自分たちの意識と全く違うことが多々あります。だから自分の出来ることや想いなどはもっと相手は勘違いしても仕方がないのです。

 何度も確認しながら相手に伝えることが大切なのです。それは名刺というビジネスツールの役割だとも考えています。相手が自分のことをきちっと理解してくれる努力はすべきです。時代がどう変わろうが必要なことなのです。これからは日本人だけで暮らす社会ではありませんから尚更、相手に何が出来るのか、したいのかを伝えることは意味を増してくるのです。

 そんな社会の今こそ名刺というアナログなツールを工夫して利用していかねばなりません。何と言っても名刺交換の良い所は余程の変わり者でなければ受取ってくれます。そして精読率高いツールなのです。今までのような住所録ではダメです。また管理を目的とした名刺も効果は定かではありません。

 個人が輝く時代が令和の御代にしなければなりません。だれも100年生きても助けてくれそうにありません。自分がなにかを表明して相手に伝えることから始めましょう。そういう個人が既に増えています。見えない流れの中で社会は変化していきます。気づいた時はもう変わってしまっているものです。

 

 

 

 

 

 

 

名刺作成の考え方②

 名刺はどういう風に変わっていけばいいのでしょうか?それとも無くなっていくのでしょうか?名刺屋としていつも考えていることをまとめてみようと思います。名刺屋ですからなくなったら困るのですが現状をみていると十分にありうることだと思います。

 名刺の役割の大きな部分である初対面の挨拶のときの名刺交換ということが減っている気がします。昔なら名刺を交換しておかないと連絡先も事業状況を確認するのも始まらず、ビジネスにならなかったのですが今は違います。ネットやSNSでググれば済んでしまいます。

 便利になるのと同時に手放したものも大きい気がします。SNSで何万人とやり取りする場も大切ですが、数人でも安心できる仲間と取引をしあうことも人生の楽しい時間のように思います。時代はどんどん変わりますが、それとは別に変わらぬものがあるのも豊かな気がします。まさに「不易流行」ということですね。

 名刺屋として思うことはこれからの名刺は会社から受取るのではなく自分が主体性をもって作るようになるほうが良いと思います。会社は個人と雇用契約を持つ際に基本的に会社で業務を行う際の名刺のしばりをはっきり規定しておき個人が作った際に補助すればいいのです。交通費や定期代とおなじ収支にすればいいのです。

 個人が自分で名刺交換をしたくなるよう名刺を作る方が良い名刺になると思います。会社は内容を承認すればそれを使い業務をすることを認めるようにすればいいのです。もちろん会社が取得した認証や会社のロゴなども承認したら使用を認めるようにした方が管理しやすいのではないでしょうか。

 名刺を作るのも個人で製作した方が真剣に内容にこだわるはずです。社会全体がそういうのが当たり前の風習となれば今のように便利だが味気ない社会でなく、人と人が会うことが楽しみになるのではないでしょうか。今日会う人はどんな工夫をした、センスの人だろうかと思うようになります。その自分の実際に出会った人とのつながりが始まって行けばなんと素敵なことでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

名刺作成の考え方

今まで名刺は自分で作るというイメージはなかったと思います。たいがいの場合は就職すると総務課や人事課で業者に依頼し、定番のデザインのものが出来あがってきます。もらう側は名前や部署などが間違っていないか確かめる程度の認識ではないかと思います。それが当たり前のようになってしまいます。

 それで良いのでしょうか?今までならそれで十分だったかもしれませんが令和の時代はそうはいかないと感じています。名刺はビジネスマンにとっては必須のアイテム、ツールです。そのことが変わり始めているのかもしれません。なぜなら営業マンが不要なしくみが出来てきています。恐ろしい世の中です。

 名刺は会社や所属する人の証明みたいなもので、初対面や新規訪問、挨拶などのときに名刺交換がおこなわれて仕事自体が前に進むという営業行為に欠かすことの出来ないビジネスツールなのです。でも今はそれが崩れてきました。パソコンやSNSで探した取引先や販売先と取引することも多くなってきました。この場合、名刺はあまり意味がないのです。

 それでも個人同士が会わないで取引がすすむだけではありませんから重要なアイテムであることに変わりはありません。会社対会社の取引なら随分とやり方もあるようですが、個人の介在することが重要な場には個人の名刺が意味を持ってくるのです。名刺のありかたも当然変わります。

 今までのように会社から渡されたものではダメなのです。大体の場合、会社のロゴ、ISO等の認証マークが記載され洗練された会社の名前のロゴが入った個人の氏名が小さな文字で書かれているものが多いはずです。なぜなら会社と会社で取引するので個人のことは二の次で会社の社会的信用や認知が名刺作成の基準になっているからです。

 これからはそれでは通用しない世の中になります。大きな企業の信用は安定していて社会的道義にのっとって利益を蓄積することですが、昨今は検査偽装、数値偽装、改ざん、正当性があるかのリストラなど大きな力でやってしまうのが大企業のイメージなのではないでしょうか。

 これを見て実感しているのがちゃんと生きたいと思う大多数の日本人なのではないでしょうか。そのうねりはうまくは表現できませんが何かを変えていきます。それが浮世というものだと思っています。名刺もそのうねりの中で変わって行く運命だと思います。

 

 

 

 

働き方を考えよう

 最近は働き方改革ということが言われ色んなことが見直されてきているようです。働き方改革とは3つの角度から考えてみないと間違った側面だけが動き出してしまう気がしています。3つの角度とは政府の政策としての一面、企業側からの一面、そして働く人からの一面の3方向の角度から見ると言うことです。

 政府としては政策として打ち出したのは労働者が主体的に働くことや起業などを国家として奨励するという側面と人生100年の時代を年金・社会保障で乗り切るのが難しいことが現実になってくるからだと思います。老人が増えて、それを支える若者が圧倒的に少ない時代に突入する現実から目をそらせる為の妖術の一つかもしれません。気をつけましょう。

 企業から見ると変化した現実をごまかす、これも妖術の一つです。残業や休日をへらすことで社員の為のことのように宣伝しますが実際の給料は上がりません。必要な分は自分で考えて何とかしなさいといことになります。その為にWワークも副業も起業も認めますという態度になります。本当は現在までの業態ややり方でこれからの令和は乗り切れないから変化せざるをえないのです。それを国の政策だからやるという姿勢に装っているのです。企業理念とは名ばかりの会社がほとんどではないでしょうか。

 働く側の感覚は国から、企業から言われると、どうにもならないので仕方がないので適当にうまくやろうという考え方が主流なのではないでしょうか。昔のように会社命みたいにするのはあり得ません。会社は一生を面倒見てくれる存在ではなくなりました。その存在は雇用関係だけです。できれば自分が嫌でない仕事に就くことが目的になります。

 一つの仕事、会社の空いた時間はスマホでさがすといくらでもアルバイトが出来るのだそうです。うまくやると月10万ぐらいになると新聞にでていました。自由なようで不自由の始まりになります。これは幸せな労働とは思えません。派遣切りが流行のようだった平成を思い出して下さい。

 小商いを皆が当たり前になるようにしましょう。アルバイトでなく自分が主体になって商いをする国民になりましょう。国はその為に援護する政策を考えることが本当の働き方改革だと思います。令和は個人が小商いで輝く世になればと願います。

 

 

 

 

名刺屋として考えること②

今回は「場」について考えてみたいと思います。「場」とは名刺を使う場のことです。なぜ、こんなことを言うのかといえば最近きものの商標の問題について書きましたが、良く考えてみると「きもの」文化は欧米化という近代日本の流れの中で「場」を創ることが出来なかったものの一つと感じているのですが、名刺もそのような気がするからなのです。

 きものは洋風化のなかで成人式、結婚式などやイベントなどで日本を演出する際に使うように見受けられます。いわゆる「特別な場」です。日常ではなくなってしまいました。原因は何でしょうか。開国維新から国をあげて洋風化してきたことが最大の原因ですが、それだけではありません。着る人間が、そのほうが活動するのに便利で動きやすくイメージがいいと感じたからです。しかも安い。

 それまで着物を取り扱う店、呉服屋さんは街からどんどん消えてしまいました。なす術はありませんでした。時代とは恐ろしいものです。最近ではカメラ屋さんも街から消えてしまいました。実は私どもの関連するお店である印刷屋、印鑑屋、文房具屋さんも消えかけています。

 なぜでしょうか?大衆に使う「場」を提供していけなかったからだと思います。すべての業界が昭和の高度成長やバブルに浮かれていたり、平成の技術革新を真剣に商人が考えていなかったのではないかと反省しています。景気にばかり気をとられ本来の自分の扱う商品・サービスの利用される「場」創りに手を抜いてしまったのではと考えています。

 令和という新しい時代はネット、SNS、AIという恐ろしい社会が物凄い勢いで浸透しています。高齢化もまったなしです。そのなかで名刺という物が生き残るには「場」をいくつも創るしかありません。これは時代の中で創るしかありません。それには名刺というアイテムを再度考え直すことが要求されます。名刺を使う「場」を本気で作るしかありません。

 

 

「ぎんぎらぎん」がなつかしい?

 七月になり梅雨らしい天気が続いています。雨は嫌だといっても仕方がないので、せめて雨の中に咲くあじさいを楽しむような粋な人になりたいものです。そんなことを言っていると全国各地で大雨被害という無粋、洒落にならないニュースが流れてきます。頭のいい人も多い世の中なんだから何とかしてくれと言いたくなります。

 話は現実の世界の仕事な話になりますが、今の若い人達の仕事をすると驚くことばかりなのです。それが歳をとったということなのでしょう。昔、バブルの頃は「ぎんぎらぎんに、さりげなく」と歌の文句にありましたが、ムカつくけれどやる気のある人が多かった気がします。

 今はあたりが良く、好印象ですが流して生きている人が多いように感じています。良いことなのか、悪い事なのかは解りませんがご時世なのでしょうか。自分には無理の様です。恥をさらすかもしれませんが昔風にやって行こうと決めました。そんな天の邪鬼がいてもゆるされるでしょう。

 先日見積もりを依頼したら提出期限をすぎる言いわけがメールできました。以前校了後の商品の変更もメールできました。電話での連絡はきません。これがビジネスなら人はいりません。これは現実にそれでいいと当人も会社も思っているからです。最終的に人の首を絞めるのは人の考え方なのだと思います。数年後彼らは今の仕事をしているでしょうか?

 「ぎんぎらぎん」の時代は暑苦しいかもしれませんが、良くも悪くも結果がすぐでました。今は結果が知らないうちに、どこかで出ているのだと思います。「考え方」はとても大きな意味をもちます。ボクシングのボディブローのように回を追うごとに効いてきます。そのときはダウンするしかありません。その時もメールなのでしょうね。

 生き方に古いも新しいもありゃしません。ただ生きるのみです。どういう生き方を選ぶかを決めるのは自分自身ですから。何か愚痴を書いてしまいました。

 

                                

 

 

発信の仕方?

「きもの」という言葉がアメリカで補正下着の名前として商標登録されたというニュースが報道されていました。こころ穏やかでないのは着物に携わる人達、会社でしょう。中国だけでなくアメリカでもこんなことが起きるんですね。詳しい内容は読んでいないので成り行きを見守りたいと思います。

 このニュースで思ったことは日本の伝統文化や日本のイメージを海外ではどういう風にとらえているのか?ということです。昔は日本といえば「フジヤマ、ハラキリ、ゲイシャ」というイメージだと良く言われていました。日本政府も随分と宣伝はしているのでしょうが思いどおりの成果は見られない気がします。もしそんなことないというならば商標や知財などのことで国が必死になっているはずですから。

 事が起きてから問題にするのは後手後手の証ですから。なぜでしょうか?自分が考えるに日本人の自信のなさなのかもしれません。自分をもっと積極的に相手に知ってもらう努力をしないといけないのに、日本的奥ゆかしさを美徳と考えているのではないでしょうか。

 日本には思ったより凄いポテンシャルがあるのです。言葉にしたって英語や中国語をならわせようと国は考えているように見受けられますが、母国語の日本語をきちっと大切にすることをしたうえで政策をすすめるべきなのです。一億以上の人々が共通語として話す言語は世界でも有数です。ちなみに世界での言語は6000種類以上と聞いたことがあります。まずそこからの気がします。

 今回は着物でしたが他にも色々なものがあるはずです。それをどう守るかでなくどう発信していくかが日本人としての一番の問題なではないかと思います。その発信する一つとして「闘う名刺!」も使っていただきたいと考えています。