新しいオーラの色について

私の母は実は昔から多少霊能力的なものがあるらしく、それによるといつもではないが、まれに人のオーラのようなものが見えるとのこと。

今日朝、母が気がついたことらしいのだが、今までは私のオーラはほとんど白と青で形成されていたらしいのだが、そこにまだ控えめではあるが、紫の色が加わったらしい。

ちなみに前に母意外のオーラを見る人に鑑定してもらったところ、白とピンクのオーラだったらしい。

これは私見ではあるが、おそらく白はベースカラーなのだろうが、そこに赤と青のオーラがあり、これが白+赤=ピンクか、赤+青=紫という風に私の精神状態によって出てくる色が変わっているのではないかと思うのだ。

オーラの解説によれば白は全ての要素を吸収する色だが、赤は情熱、青は冷静さや知性などを表しているらしい。

だとすると以前は情熱の赤が強かったが、現在ではそれよりも状況を知性的に静観している、つまりは冷静に考えていると解釈できるかもしれない。

その結果、今は白+赤で合成されたピンク=愛とか感傷というよりも、青の力が強まり赤と合わさることで紫が出てきたのではないかと考えている。

紫は情熱と冷静、つまり赤と青を包括した色である。

ちなみに紫はスピリチュアルとか精神性とかを表す色でもあるそうだ。

これには思い当たるふしもあり、最近のことではあるが、突然、気持ちの持ち方が今までの夢追い人的思考から、人の生き方にはもっと大切なものがあるのではないだろうか?という考えに変化してしまったのである。

情熱的で夢ばかり追うだけではなく、もっと静かでやすらかな人生もこれもまたよし。

そう思えたことが赤の色にうまく折り合いをつけ、私のオーラに違う色を生み出したのかもしれない。

 

 

 

 

 

月食とホロスコープ

今日1月31日は月蝕が起こる日である。しかも今回の月蝕は特にめずらしい現象であるらしく、一ヶ月に二回満月があること、赤い色をしていること、そして大きく見えるという3つの要素がある月蝕らしい。

ちなみにインド占星術のホロスコープの惑星の動きを見ると月はかに座に位置しているようだ。

蟹座の守護星はほかならぬ月であるので、今回の月蝕はひときわ力が強まりそうな気がする。

蟹座と月は共に母性、感受性、神秘、女性性、精神などを司るのでそのあたりにおおいに影響がありそうである。

ちなみに私、個人のホロスコープではかに座が2室であり、2室は金銭などの取得などに関る部屋であるとのこと。

さらにこのハウスに影響を及ぼしそうなのがやぎ座8室がアスペクトという現象で力を与えていることである。

現在の8室は太陽、金星、水星、ケートゥという3つの天体と1つの架空の天体が位置していて大変にぎわっている。

太陽は自我とかプライド、金星は美、愛、水星は知性、そしてケートゥは内省とか内面的に働く力を表している。

蟹座の月蝕は自分の今の考え方や美意識、知的な学び、内面的な価値観に何か強く影響してきそうな気がする。

しかし8室はやぎ座で忍耐や努力の星座のため、変化には何らかの痛みも伴うのかもしれないと思うのである。

ただそれを乗り越えれば、取得や収入で表される2室の象意のように、何か自分のためになる力や気づきをもらえそうな気もする。

 

 

 

今日は危の日or月12室

昨日あたりからどうも体調もすぐれず、することはあるのだが無理な頑張りが聞かないという感じであった。

私はインド占星術や宿曜占星術といったもので毎日の星の動きを確認する習慣がある。

これは単に占いというだけでなく惑星が個人に与える影響というのも実際に少なからずあるのではと個人的に信じているからである。

インド占星も宿曜占いも月を重視する占いなので結果が近いところはあるのではと思う。

出はインド占星術と宿曜での占いはどうなのかというと、占星術では一つではなく、たくさんの惑星の影響を考慮しなくてはならないから一概には言えないが、やはり月というものがかなり人間に強い影響を与えていると考えられているので、その点を重視して見ることにした。

宿曜占星においては個人の生まれ年月日から見る、占星術では誕生星座のような概念である「宿」ごとの運勢を見て判断した。

それによれば宿曜占星術では今日は「危」という日でありこの日は吉凶混合ではあるが、心身共に乱れがちで新しいことや無理をするには適さない日であるとのこと。

一方、インド占星術では月は終わりとか、手放しなどを意味する12室に月が位置していた。

この二つを見る限りではやはり今日は新しいことを始めるというよりは、できることを最低限こなして、明日に繋げるということが適した過ごし方のようだ。

ちなみに明日はというと宿曜占星では「成」の日であり、昨日よりは行動をするのに適した日のようだ。

インド占星でも12室の次は始まりの部屋である1室に月が移動するので、そのあたりで運気が切り替わるのではないかとおもっている。

 

 

中世の職業意識について

この間ヨーロッパの中世について調べていたら興味深い情報を見つけた。それは一般庶民にどのぐらい職業意識、つまり自分はこの仕事をしているという自負があるかどうかというものである。

これについてはその時代の人でも個々に差があるため一概に全てとは言えないものの、神職などの一部の特別な職業はともかく、一般の庶民にはそこまで職業に対するこだわりというものは浸透していなかったようだ。

もし一つの仕事をしているとしてもそれはそれ以外の職につくという選択がないからであって自ら望んでということは少ない傾向にあるようだ。

それも例えば靴職人などの専門職にたずさわる人のことであって、それ以外の人は日雇いのような仕事をしたりして、固定の職につかず今日は積荷を運ぶ仕事、明日は別の仕事などとほぼなんでもするという意識でお金を稼いでいたこともあったらしい。

これは当たり前といえば当たり前でこの時代はお金を稼ぐことは今よりももっと食べることや生きることに直結しているので、職業がどうのとは言っていられないわけである。

天職とか天命という言葉は昔からあったようだが、このような歴史的事実を見ていると、本当はそのようなこだわりは作り出されたものであり、ないものであるような気がしてくる。

現代人はとかく職のチョイスで悩みがちだが、本当はもっとシンプルに考えていいのかもしれない。

 

平安時代の住居について

最近、平安時代の住居について知る機会があったのだが、私の中で平安時代は=貴族文化、立派な屋敷に住んでいるという先入観があり、一般庶民の暮らしについてまでは考えが及んでいなかった。

では一般の人達がどんな住居に住んでいたかというと、まず庶民でも都(今でいう都市部)に近い人達は木でできた家屋などに住んでいたらしいが、地方の人達は縄文時代などとは異なるものの、竪穴式住居のような家に住んでいたということである。

平安時代=貴族というイメージがありそこまで考えなかったがやはり平安時代はまだ大昔なのだということを改めて実感させられた。

教科書などでは和歌など平安の貴族文化について教えられてきたが、このことを聞くとむしろこちらの庶民の暮らしの方が気になって知りたくなってしまった。

ちなみに一般市民でも貧しい階級の人々はというと木造は木造でも名ばかりの壁も屋根もないようなほったて小屋に居住していたらしい。

何日か前に大雪が降ったが本当にこのころのこういう人びとの暮らしは想像を絶するものであったに違いない。

雪、雨、風、災害、疫病、戦災など厳しい環境で生き延びてきたご先祖に頭が下がる思いである。

 

 

理屈で考えることの弊害

最近感じていることを一言で表すならば「理屈で考える癖」をどうにかしたいということである。

頭でなんでも考えることは良い意味合いの言葉だと哲学的であるとか、理論的であるとかいう言い方をするが、悪く言えば頭でっかち、理屈っぽいということになる。

この理屈で考える癖というのは厄介でなんでも物事に意味を求めたり、疑問を持ちすぎる傾向がある。

哲学者やそれを仕事に結びつけている一部の人ならいざしらず、これを突き詰めすぎると、全ての物事、自分の行動に何も喜びのようなものを感じられなくなってしまうように思える。

私の場合、長く人生に悩み、神秘学、心理学、哲学、宗教学、その他文学などの芸術にも答えを求めたが、どの分野においてても確たる意味でこれが必要であるとか、自分のしていることがこの世の中や人のために必要かという意味は見いだせなかったような気がする。

こういうとても絶望的に感じられるがたぶんそれは「ない」のである。

ではどうすればいいかと言えば、はっきりした答えは見いだせないが、少なくとも私の場合は、理屈や正しさだけではなく単に物事を「楽しめるか」ということに主眼を置こうかということに至った。

好きなら物事にチャレンジしてみるし、嫌だったりつまらなければなるべくしないのである。

これほど長く悩んできた結果がたったこれだけのことと悲しくもなるが、どんなに理屈で物事の意味を考えても答えはないことが分かったので、今、できる判断法はただこれだけである。

そう考えるとあまり意義を見出せずに頓挫したことももう一度やってみることができる気がしてきた。

今はまだ完全に理屈で考える癖が抜けていないが、いつかまた子供の時のように心で楽しんだり、素直に表現できる日が来るといいと思っている。

バースマークについて

最近、知り合いが変わったところにアザというか、傷のようなものが生まれつきあるということで、その点についてちょっと調べてみた。

これはスピリチュアル的な目線で見るとバースマークといって生まれる前、つまり前世などで自分の体験したことなどが印として表れるものらしい。

その人の場合は肩付近で、自分の場合は首のうなじの部分に貯金箱みたいにアザのようなものが生まれつきついている。

ちなみに変わった生まれつきのほくろなどもバースマークに含まれるらしいとのこと。

バースマークがある理由は他にもいくつかあって、例えばパートナー同士で同じ部分にそれがある場合、前世でなんらかの関りがあったので、今世でも目印となるようにこれが分かりやすくついているらしい。

もう一つは生まれ変わる前に今世でも自分の子孫だと分かるように(これは使命を果たすとかの場合もあるらしい)印がついているということもあるのだとか。

本当かどうかは分からないが実にロマンチックで面白い考え方だと思う。

超思い込み力

今日、年末に向けて部屋の掃除をしていたら、以前、気になってメモした紙が出てきた。

それはアルメニア生まれの神秘主義者、ギオルゲイ、グルジェフの「超人」についてである。

グルジェフは人の性格を分類したエニアグラムの創始者として知られているが、彼は未来を予言する占い師と言うよりは、もっと現実で役に立つような教えをたくさん残している。

まず、彼の言う超人とは努力を限界まですることによって、何か計り知れないエネルギー源と繋がることができ、本当の能力を発揮できた人間のことらしい。

例えば、40キロ雪の中を歩いて家の帰った後、さらにまた休まず4キロ歩くということを彼は例に挙げている。

先ほど、実践的な教えが多いと書いたが、ここまで見ると通常の人にはまず無理なようにお思える。それはその通りである。

しかし、重要なことは実際にその行動そのものというよりも、それをしようという「強い思い込みの力」ではないかと私は思う。

よく引き寄せの法則という言葉があるが、これは人間が強く願うことにより、実際に似たようなエネルギーが引き寄せられ、物事が叶いやすくなるというものだ。

しかし、人間の深い無意識には「やっても無駄だ」とか、「失敗する」「怖い」などが気付かないうちに蓄積されてしまっていることが、多い。

こうなるとこちらの思念の方が強いため、望まないことを引き寄せることになってしまうのだ。

グルジェフの本当の考えについては知るよしもないが、彼は実際にそれが人間に可能だというよりも、何かを叶えるにはそれ相応のパワーのある行動や強い暗示力が必要であるということも言いたかったのではないだろうか。

グルジェフの超努力はとてもできないが、ふつうの人間である我々にも引き寄せの法則の活用法のように「超思い込み」をすることは可能なのではないだろうか。