病院、混んでる

今日は高齢の親父を連れて病院に行きました。先日、倒れて救急車で入院し、幸い退院できたのですがその後の検診ということです。結果は良かったのでひとまずは安心しました。

病院は総合病院ですので、人が混み合っていました。予約していましたが2時間半かかりました。その間、人がきれることがなく、まるで駅の改札口のように次々と人が行き交います。こんなに病院にかかる人は多いんですね。やはり高齢者の方が圧倒的に多いですね。自分も親父の付き添いで来ていますが、他の高齢者も一人より2人連れが多いのは介護の方、家族の方なのでしょう。

今、町中にこんなに人が混み合うところはないですね。デパート、スーパー、コンビニ、役所等人が行くところはいっぱいありますが、こんなに混み合うところはないでしょう。これが日本の現実なんだとあらためて思いました。しかし病院の職員たちは慣れたもので、あのたくさんの高齢者をこなしていきます。そして高齢者も慣れたものです。

自分も還暦すぎなので年寄りなのですが、こうやって親父やお袋を病院に連れてくることで今のシステムに慣れて行くのだなと感じました。しかし病院は楽しくない場所です。そこでどんなに嫌でもお世話になるわけですから、何とかあの中でもちょっとぐらい、ほっとできることが出来ないものかなどと考えて時間を過ごしましたが良いアイデアは浮かびませんでした。

自分も今は何とか健康で生きていますが、そのうちにはお世話になることもある訳ですから今からこの長い待ち時間や病気になってしまった時の気の持ち方、対処方法を考えていけということなのでしょう。つらい現実ですが仕方ありません。なんせ人生100年とか言っていますからね。生きていくのはたいへんだ。

 

 

 

 

どうなっているんだ

どうなっているんだろうか?スポーツの団体、協会ひどすぎるね。相撲、レスリング、アメリカンフットボールとこの半年ぐらいの間で次々と不祥事続きだ。ワイドショー的にはおもしろいのかもしれないが、笑えない話ばかり。時が過ぎ、嵐が過ぎるのを待っているかのようにしか見えない。

どれもイジメ、暴力、セクハラ、パワハラ、ルール無視とまるで無法地帯のようです。今回の日大のアメフトの件は上からの指示とはいえやったことの責任はまぬがれないが、上の責任逃れの発言や態度は本当に見苦しい。きっと想像するに今までの間、ずーとああいう生き方に疑問を持たなかった人生なんでしょう。

スポーツの世界だけでなく、今の社会全体がむかしの日本なら恥としか思えないことを許してしまっているからなのだろう。日本は恥の文化が行き過ぎて、反動で今のようになってしまったのだろうか。失敗すること、間違えることは恥ではないが、人をおとしいれること、権威の傘に隠れて下のものいじめること、性差別は確実に恥じるべき行為である。

スポーツの世界では野球の大谷君みたいに現状に満足せずチャレンジを続ける人もいる。たいしたものです。それと逆に恥を繰り返すスポーツ選手や政治家、大企業のデーター改ザンなどはどんな価値感をもって生きているのだろうかと思います。

それとどの不祥事でも第三者委員会をたちあげるようですが、彼らが頼んだ第三者委員会では信頼出来るのでしょうか。それしか方法がないのでしょうか。まず、かかわったものが良いも悪いもなく、一度全員がやめることから立ち上げていくほうが良い気がします。中途半端な政治家や政治家くずれ、天下りを繰り返している人達、それにしたがっているいいなりのOB、知識人そんな人達に任せても、又同じような事を繰り返すだけです。

本気で変えていく気のある人を周りが応援していくしかありません。看板の書き換え、同じような有力者達ではスポーツでも政治でも大企業でも凋落していくことになるのではないかと考えます。他の国のやりかたではなく日本のやり方でけじめをつけたいものですね。

 

 

 

微妙なニュアンスの商い

小商いをしていて小商人として最近感じていることを書いてみたいと思います。取引をする際に物を仕入れるわけですが、昔と違って営業というイメージの人を見なくなった気がしています。もちろん、うちの担当営業の人はいますが型どおりのことしかしないようです。うちが小さいからと思っていたのですが、他の会社の社長に聞いてもそうだそうです。

自分たちが営業で回っていた頃は行くたびに何かを売り込もうと考えていたのですが、今はそれほどガツガツしなくていいという会社の方針なのですかね。それはそれでいいのですが微妙なニュアンスを解ってくれません。いわゆる白か黒かしかないのが今の時代ということと理解するようにしました。

白か黒かで、商品をどれだけ便利に注文でき、間違わないで、早く納品する。ここに焦点を合わしているのが現在です。ワンクリックで翌日納品を競うわけです。価格交渉もほとんどありません。かなりの大量の購入であっても価格は崩しません。だから営業の役割はとりあえず、あなたの地区の担当です。というだけなのです。

経営の目でみると営業は誰に代わってもまじめに訪問してさえいればいいわけで、お客の情報は報告を怠らず日報にすればいいということです。判断は違うセクションがするのでしょう。管理しやすいですから効率的なのですね。商品はデーターの分析から作りその基礎データーが集まれば良いのです。

自分みたいな昭和な商人は微妙なニュアンスにこだわり過ぎるのかもしれません。お客様のことを忖度して考えてしまうのです。昔はと言いたくないのですが、それが面白かったのかもしれません。もちろん今の人達に押しつける気はさらさらありません。でも自分たちのスタイルはそう簡単に変えることもできないので、微妙なニュアンスを商いに活かせる方法を考えていきます。白黒だけで物事が決まっていく時代は人間が幸せを感じられるのでしょうか。

 

 

「闘う名刺!」の作り方を編集中です

今、「闘う名刺!の作り方(仮称)」を編集しています。前にも書きましたが広めることを前提に考えると作り方マニュアルも必要になります。うちは名刺屋ですから自分のところで作れればいいのですが、なにせ小さい。マニュアルを作り個々人がそれぞれの想いを自分の好きなかたちで作るのが一番いいと思ったからです。

闘う名刺!は想いを、言葉化した名刺です。それを創るには自分の深層の部分を見つめ直すことが必要になってきます。配りたくなる名刺を創りましょうというのがコンセプトです。そんなにむずかしい事ではありません。名刺を作るにもちょっとしたルールがあります。それを解った上で作ればどこの会社で作ってもらってもいいのです。

名刺はビジネスでは小道具であり武器です。小商いをしている人や、フリーランスの自営業の方、Wワークの方、副業をされる方、老若男女の方々が、それぞれの個性を発揮された闘う名刺!を創って活躍している社会が見たいのです。あなたの強い味方、相棒を創って欲しいのです。

作り方のマニュアルはご自分で名刺のデザインをしてもいいし、どこかのテンプレートを使ってもいいし、それを印刷通販などに手配してもいいし、個人や小さな商人が作るのに解りやすいもの、安くできるものにします。

個人や小商いが大会社、有名会社と同じ世間という土俵で勝負するのですから、同じやり方、考えかた、同じような名刺では強い敵にかなうわけがありません。工夫するしかありません。その工夫できる小道具、武器が名刺なのです。

時代が進みSNSなど色々なものがでてきていますが、おおいに利用すればいいと思います。ビジネスでは名刺交換をすることになるでしょう。その時にあなたの第一印象が大切になります。初対面の方にきちっと想いを伝えることで、次の展開が始まります。信頼関係が重要なのは今も昔も将来も変わらないのです。もしそれがなければ、まともな商いはできません。名刺交換はその始まりであり、あなたの配る闘う名刺!があなたの相棒として活躍してくれるはずです。

 

 

未来の名刺はどうなる?

名刺のいらない世の中は近いのだろうか?社会にでると、だいたいの人が名刺を持つことになる。昔、昭和のころと比べるとずいぶん変わってはいるけれど、名刺交換というビジネスでの習慣はなくなっていません。内容、デザインはともかく習慣は健在です。

先日テレビで見たのだが、脳にICチップを埋め込むようになると、相手に対しテレパシーのように情報を渡すことが可能だそうです。確かに、今はIoTが話題ですから次に来てもおかしくないと思いました。そしてその情報はクラウドで保管するので、個人の経験や想い出までが、他人に渡せるというのです。そら恐ろしいと思いました。しかもその実験を数十万規模で始まっているとか言っていました。信じるか信じないかはあなた次第ですと。

もしこうなれば名刺は当然のように消えていきます。他にも色々なものが消えていきます。真偽はわかりませんが、世の中が大きく、大きく変わりだしていることは間違いないでしょう。今日の常識が明日は非常識になるかもしれません。それでもその世の中をただよっていくしかありません。今ある道具で生きていくしかできません。

だから工夫するしかありません。名刺交換をして多くの人達とナマで出会い、自分に有益な人と繋がって行くことです。その為の役に立つ「闘う名刺!」を広げて行こうと考えています。

若いころ文具関連の会社で仕事をしていた時に売れていた商品、カーボン紙やビンに入ったインク、ペン先、砂ゴム消しなどは見なくなりましたが形を変えて、用紙が工夫されたり、ボールペン、シャープペン、消せる何かになったりしています。ポケベルも携帯になりスマホですから、与えられている役割がなくなるのでなく違う形になり生き残る訳です。

名刺もビジネスというより個人のセンスを現わす小道具になるかもしれません。自分の頭では想像できるのは限りがあります。それでも名刺屋として見て行こうと思っています。

 

 

 

 

若い人たちの名刺交換

新聞の上場会社の異動の欄も相変わらずたくさん載っています。どれほど名刺が作りかえられたのだろうか。それと4月に入社した新人も会社に慣れてきた頃だろうか。名刺をぎこちなく差し出していた頃に戻りたいものだと思う。やはり若さはうらやましい。

所属が決まり、お客様への挨拶がひととおり終わると、ほっとするのか色々な事を考え過ぎてしまう。俗に言う5月病には気をつけてくださいね。だれでもありますから、自分だけではありません。若い時は失敗できる特権があると心のうちで開き直って行きましょう。今の人達は大丈夫。年寄りの冷や水ですね。

でも何度でも書いておきます。道はひとつではありませんから。会社にせっかく入社したなら観察するくらいの気持ちでいましょう。人間と組織のいい勉強になると思えばいいのです。そうこうしているうちに新しい考え方や展開があるものです。その時にまた考えればいいのです。新しい人間関係に真剣になっても深刻にならないようにしましょう。

名刺交換もこれからは上司につれられ、紹介されるというパターンではなく、自分の意思で、誰かに会い目的をもっての名刺交換になります。会社のことは相手も知っているかもしれませんが、あなたのことは誰も知りません。あなたが名刺交換をする時にひとことふたことの会話をしたぐらいでは、なかなか覚えてくれません。

みんなそんな経験をしてきています。そこでどうするかが大切なのではないでしょうか。それぞれのやりかたを工夫するしかありません。だれかの良いやり方はあなたに適していないかもしれません。自分で編み出すしかありません。積極的な人もいれば、内向的な人もいます。ただ名刺交換はチャンスであることは間違いありません。スマホ、メール、ライン、SNSと色々な接触の方法はありますが、初対面は名刺交換が、まだ日本では信用されます。社会も働き方改革とかで副業、Wワーク、起業をすすめたりする時代です。自分の想いを言葉化した「闘う名刺!」を工夫して創りましょう。

 

 

 

 

心のことも忘れずに

中国では2035年というから17年後に自動運転だけの自動車の都市ができあがるのだそうだ。世界の自動車メーカーや関連業界も当然参加していく。シンガポールではすでに色々な未来技術が国全体で社会実験可能となっているので各メーカーが進出している。スウェーデンでは現金を持ち歩かない社会ができている。

技術の進歩はわからないうちに世界で進んでしまっている。まだ先のことと思っていたことが半年後には常識となり、今までの常識は非常識となる。日本も含めてだが何か忘れていないだろうか?人間の為につくる社会ではないのか?AIに市民権が与えられてAI有利のシステムが出来ているのだろうか?まさにクエッションである。これらの先進技術をけん引する国々(日本も含めて)は人間をどう考えて幸せに導く理念があるのだろうか。

昨日のニュース番組でメジャーリーグのエンジェルス大谷さんが注目を浴びているが、アメリカのある記者がベンチでの彼の行動にスポットをあてていた。それはメジャーの選手がヒマワリの種をはきだしているのに対して彼は紙コップに捨てていた。その行動を彼の人間性の紹介としていた。これは実家の子どものころからの躾だと思うが、今の日本はどうなのでしょうか。昔と同じように継続していてほしいのですが。外国の親は躾なかったのでしょうか。

最近は日本でも歩きスマホや電車内での飲食などが目立ちますから、気をつけたいものです。やはり心の問題はおきざりにしてはいけません。AIに任せるのではなく人間が解決すべき問題です。人間が作るものはAIも作れるはずです。だからこそ人間がもつ感じ方、味があるとか、あいまいさ、バカな行動なども、スル―しないで考えてみることも必要なのではと思っています。

 

 

小商人の覚悟

小商いは自分のライフワークみたいなものです。でも、あまり深く考えているわけではないのです。ですから皆さんに特に薦めることはしません。自分は昔から小商いというか、自分で何か作ったものを売りたかっただけなのです。

自分でやるのは面白いのですが、大変な事も多いです。あたりまえですね。世の中が自分の生まれ育った昭和の時代とは様変わりしてしまいました。平成は来年で、次の年号に変わります。新しい時代に、どんなことがやって来るかを想像すると楽しみな半面、不安ばかりです。

あたりまえになった常識が、まだ腑に落ちないという感じありませんか。例えばスマホ。電車でも歩いていても、子どもを自転車に載せていても皆やっています。危ないと感じても皆やっている現実が不思議です。他にも色々ありますがきりがないのでやめておきます。

歳を重ねて、老いたことも差し引いても何かが変だと感じています。そのなかで新しい時代を迎えて行くのですから、色んな情報があふれている時代に何を選択して何を捨てて行くかが大切だと感じます。「あきらめる」ということも悪い意味でなく必要な時代になるのかもしれません。

小商いの核になるのは、自分の心の指針です。商品やサービス、技術はもちろん重要です。でもそれを変えていくことも考える必要があるかもしれません。今までの常識は常識でなく、それに代わるものも短期で次にでてくるものに取って変わられる。そのスピードが速い。段階を踏んで進むのではなく飛び越して進んでしまうのです。

今まで必要だと教えられてきたことが、明日から書きかえられてしまっているということが平気で、あちこちで起きています。人が中心の世界が崩れ始めているのかもしれません。変えても対応できることと、どうしても変えられぬことがあります。小商人は、それを抱えて生き抜く時代になると覚悟をしようと思います。

 

 

コーヒータイム

この間テレビでコーヒーの話が取り上げられていました。自分もコーヒーはお茶より飲んでいます。いつ頃からこんなに日本でメジャーな飲み物になったのでしょうか。番組ではファーストウェーブからセカンド、サード、今はフォースウェーブなのだそうです。

子どもの頃はネスカフェのインスタントコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいました。あれが普及期だったんでしょうか。宣伝は違いがわかる男というフレーズを記憶しています。それから学生時代になると喫茶店、純喫茶に友達とたむろして過ごしました。何かちょっと大人になった気がしました。

その次は会社に入ってから、現場でも休憩室でも自動販売機の缶コーヒーをやたらと飲んでいました。自動販売機の普及もすごい勢いがありました。そしてスターバックスやドトール、タ―リーズなどのコーヒーショップの時代がきて、コンビニのコーヒーも定番になりました。

自分たちはコーヒー好きにされたのかもしれませんね。最近の商店街にはお茶屋さんは少なくなりましたが、コーヒーの焙煎店はどこでもみるようになりましたね。今度は味だそうです。当たり前ですが、あまり有名な産地でないところの貴重な豆を商社が開拓しているそうです。自分などはコーヒー好きですが味音痴なので申し訳ないが飲んでみたいとは思いました。一回はね。

コーヒーや紅茶が日本で広まったのは明治のころだと思いますが、自分の興味はその時コーヒーカップを作った日本の窯元がいたことに興味をそそられます。それまでは湯飲み茶わんを作っていた職人さんが、どんな気持ちで作ったのでしょうか。コーヒーカップの歴史は調べてみたい。今は残念ながら思っただけですが、現場にいってみたいです。

そういえばNHKでなまえの話をしていました。コップとカップの違いのことを話していましたが英語だとカップと発音しますがオランダ語ではコップというそうで、日本では鎖国時代に言葉が入っているものはオランダ語が多いのですかね。カップは持ち手のあるもので、コップは筒状のものだそうです。あまり考えてみたこともないのですが色々な観点でみると面白いものですね。

価値について考えてみた②

つい最近、東大の学生食堂の改装で東大出身の画家の壁画が捨てられたそうだ。金額は1000万相当と言っていたが豪気なものだ、さすが東大?

捨てる指示を出した人も、解体した人も、見ていた人もその絵に価値を感じなかったのだろう。もし価値を感じる人がいれば捨てるなら自分が貰っても良いかとかの申し出があるだろうから。これが世間的に有名な絵だと違ったのかもしれない。自分も無学でその画家のお名前は存じ上げなかったので、彼らと同じだが対応は違ったと思う。もう少し確かめるだろう。

しかし価値と言うのは不思議なものだ。それを必要とする人にとっては金にいとめをつけないし、不要な人にとってはゴミ同然となる。これがその人の趣味、感性などの内的要素から欲しいという価値がある場合と世間の金銭的価値をつくる認める組織でつけられた価値なのかが解らなくなっているのが難しいところだ。

本当の価値は人それぞれで違うのに、みんな同じ価値の基準を押し付けてはいけないと思う。それが裸の王様の始まりだから。でも今回のケースは昔からそこに展示されていたというから、配慮のなさは感じてしまいます。題名は絆といっていたので当事者たちにとっては絆という価値ができるかもしれませんね。

世の中では生きて行く為に必要な価値を取引して暮らしているのだから、価値ということをもっと考えた方が良いのですね。ただ誤魔化される価値も色々ありますから気をつけなくてはいけないですよね。世界的な価値であると思っていたノーベル賞もおかしな行為をするし、おかしな候補者の名前も出ているしね。やはり価値については自分自身で、何に値があるのかを決めて生きて行くことのほうが幸せなんじゃないだろうか。金にはならないけれど精神的にはそのほうが、大きな価値を得られる気がします。