今年のイメージ

今年初めの投稿です 本当は正月ごろに書いたのですが操作を間違い今になりました 今年もいっぱい間違いや失敗を繰り返すのでしょう そんな自分ですから仕方がありません

さて去年のブログを読み返していたのですが年齢のこと、歳に関する話が多くて随分と気にしているのだとあらためて感じました 今年は違う観点で色々なことを見つめていきたいと思います 今興味があるのは古代です 歴史は前々から好きで戦国時代・維新・江戸時代などは本で良く読んできたのですが最近は縄文や邪馬台国のことが気になって仕方がありません 今年はそんな感じで行ってみようと考えています 忘れぬように書いておきます

歳か?

時の過ぎるのの早い事、今年は特に早く感じてしまった一年でした そういえば昨年のこの時期に八代亜紀さんが亡くられてびっくりしたのを覚えています 歳を重ねるからなのでしょうか 実はブログの投稿も今月初めに書いたのですが操作をあやまり今日又書いています すぐに書けばいいのでしょうが少し経つと書いた内容もおぼろげで面倒になります 歳はとりたくないと思います でもこのことは自分の性格のほうが強いかな?

歳をとるのは嫌なことも多いのですが若い時に感じなかったことも分かることも増える気もしています それが良いのか悪いのかは分かりませんが鈍感になるのもありかなと考えています もうすぐ新しい年となりますが 自分はそれほど変わらなくても世の中はものすごい勢いで変わっていることも うっすらと思いながら過ごしていこうとおもいます

中途半端な年寄りより

先日、久々にカミさんと居酒屋に行きました カミさんは飲めないのですが居酒屋の雰囲気は好きなようで時々は夕飯がてらに二人で近所の駅周辺の店に顔を出してみるのです 今度友達と〇〇の会とかをするとのことなので偵察もかねて寄ってみました 今は個室の居酒屋が多いようですね今日入ったところはきれいな店でしたが迷路のような個室でした 料理は和食中心で我々年寄り向きで良かったのですが注文がスマホでQRコードでアクセスして注文するのだそうです カミさんは慣れているようでしたが自分はテーブルの上に注文するための店の端末があってその画面のメニューを頼むところで止まっていました それに気づかされましたまさにいつの間にかこうなってしまったのでしょうか 進み方が早すぎます 我々の先輩方も大変ですが、達観してあきらめても許されるお年頃ですがまだ自分は中途半端な年寄りで何とかついていこうとするのですが厳しくなってきているようです 生活にかかわることは少し丁寧に変わってくれるといいのですがマイナンバーカード、インボイス制度とあれよあれよと平気で変わってしまいます なにか浦島太郎の心境の今日この頃ですが年寄りの冷や水ですが意地も見せたい気持ちで日々過ごしています 今の自分の目に映る糸つの景色として書きました

肩こりキツイ

10月になってから肩こり痛でまいっています 昔からこの時期9月、10月は季節の変わり目で体調をくずしてしまいます わかっているのになぜでしょうか?やっと10月も月末になってきて回復に向かってきました よく肩こりをしないという人がいますが羨ましいかぎりです 亡くなった親友がそうでしたもうすぐ命日がきます 寂しいと近頃よく思います

ともかくまだ生かされている身としては歳をとるたびだましだまし生きています今を頑張るしかありませんからね 何か愚痴を書いてしまいました こんな日もあります 明日からまたがんばろう

自分も敬老?

なんの連休なのかと思えば「敬老の日」が9/16でした 自分も立派な老人であるがこの日はちっとも嬉しくない 歳を重ねるたびに誕生日を迎えると複雑な想いがわきあがる自分と同じ想いの人も多いはずだ 調べてみると元は昭和25年頃の兵庫県の老人会の行事が広がったとか このころは戦後で家族を亡くした人も多かったので意味があることだったのかもしれない 呼び名は「としよりの日」と言っていたそうです それが昭和39年に「老人の日」となり41年(1966)に国民の祝日となりもっと良さげな呼び名はないかで「敬老の日」となったそうです

1966年ころは高度成長期だから敬老でもなんでも休日を増やさないと休めなかったのかもしれないね 今は自分が年寄りといわれる歳になったが平均寿命は延びて自分の親も90代で頑張っているのだから 敬老はそちらからになるわな ともかく色々なことが日々大きく変わる時代だしついていくのも大変だというのが現状だ どうやら敬われるのはまだまだ先のようです 先ほど調べたいと思って本を探したのだが無い見つからない とりあえずそれを探すのが先決のようです ほんとにどこにしまったのだろうか?

おごってる?のかな

今日はドジャースは負けてしまったが大谷君は38号を放ってくれたメジャーのすべての球場でホームランを記録したとのことです ここのところ調子を下げていたがメジャーでホームラントップだし今年はリハビリ中なのだから考えられないほどよくやっていると自分などは思うのだが世間というのはいいかげんだから言いたいことを言っている スーパースターの宿命なのだろう

昨夜ナイター中継 巨人対横浜を見ていて思ったのだが選手の顔と名前が分からなかった自分は巨人ファンだから古い選手は知っているのだが新しい選手は分からないと知る努力をと思い目を凝らすのだが なかなか覚えられない横浜の選手は背中に名前が書いてあり何とか区別がつくのだが巨人の選手の背中には何も書かれていないのでぶつぶつ言っていたら野球好きの妻のいうことにはヤンキースの真似らしい 要はフォアザチームとかで個人名を表記しないのではと言っていた 面倒なので調べはしないが 本当ならちょっと違うんじゃないのと思う

チームを思う前にファンが名前も覚えてくれないのはどうなのでしょうか?多分巨人以外のチームは表示があると思います 未だに球界の盟主気取りはいかがなものかと巨人ファンの自分などは思います 今年は何とか優勝してもらいたいのですが同時に色々と考えてみたらどうでしょうかね オールドファンより

 

記念日?祈念日

今日は8/6です 79年前に広島に原爆が投下された日なのです この時期になると平和や戦争のことが色々な報道で注目されます この時期だけというのが気にはなりますが忘れられるよりは良いことだと毎年思っています 新聞の記事で原爆の日、そして平和記念式典と出ています この記念が気になります 細かいことでと思いますが気になって仕方がなく書き留めておこうと思いました 記念とは主に思い出に残すという意です 字をあてるなら「祈念」ではないのでしょうか 祈念は神仏に祈るです 平和祈念式典のほうが自分にはピタリととくるのでこれからはこう記そうと思いました そしてこれはテストだと間違いになるなあと考えながら書いています

歳を重ねるといろんなことが気になります いやだねと思う反面、自分はこう考えていますということは伝えておきたいと思いました そのことが何になるかでなくこういう人もいるということを 前に書いたか忘れましたが「障害」という言葉も戦前は「障碍」だったと聞きました最近では「障ガイ」などの表示を良く見るようになりましたが戦後に役人が碍ではなく害を当てたそうです それを認めた人や子供たちに教えた人も気にならなかったのでしょうか?ちなみに碍は道に岩がおいてあり、ちょと足がとまるような意味と記憶しています 害という悪のイメージではありません

気にされ始めたのは最近になって取り上げられることがちらほらあるようです 多様性の時代と言われるからでしょうか おかしいと思うことは自分がおかしく思わぬようにするしかありません 誰かに指摘されたら自分の思いを話せばいいのです そこで分かち合える人とそうでない人で頭の整理をすればいいと思っています そこで同じ方向に歩く人とただすれ違う人とが決まるのではないでしょうか ふと思ったことを書いてしまいました

今日は天赦日だそうです

暦を見ると今日は天赦日とのことです 天赦日とは天が万物を赦す日で大吉日だそうです 早速サマージャンボを買いに行くとどこの売り場も年配の人が並んでいました そうだよな天赦日なんて気にするのは年寄りばかりだなと思いましたが自分も十分な年寄りです でも天が万物を赦す日というのはすごいな それも契約をした信者とかでなく万物なのだから太っ腹もいいところです 感謝 それに今日は大吉で一粒万倍日でもあります 並ぶのも無理はない

天赦日という言葉はどこで聞いたのだろうと考えると最近読んだ小説あきない世傳金と銀(高田郁)の江戸時代の商人の話の中で何度も出てきたので何となく気にはなっていました どの時代も人は天に赦しを請いながら生きていくのですね人である以上罪を日々重ねながら生きていますから ちょっとでも気持ちが楽に過ごせるように昔々のどこぞの知恵者が考えて作ってくれたに違いありません ありがたく受け入れさせていただきます そう思うだけでもちょっとは古代の人に近づいている気がしてのどかになりますね

 

食べ物の記憶

今日から7月、この時期になると「うなぎ」を食べたくなる。実際には冬場に食べるほうがうまいと聞いたことがあるけれどその時期に食べたことがない。この時期のうなぎを食べる習慣は江戸時代平賀源内という知恵者のプロデュースだそうだが最近は広まりすぎてなかなか手が出る食べ物ではないようだ。なのに初ガツオと同じで見栄をはって財布を開いてしまう。まんまとはまっている。

「うなぎ」の記憶はもう60年ぐらいたつが子供のの頃におふくろに立川のデパートの食堂で食べさせてもらったのが自分の記憶の始まりだと思います。そのぐらい前のむかしの事なのによくもまあ覚えているものだ。家は今も昔も裕福でないので、きっと無理して食べさせてくれたのだろう。ほかにも食べ物のの記憶は忘れられないもののようだ。まさに貧乏人のなせる業といったところだ。

今は何でもある時代だけれど昔60年前はまだまだ日本は貧しく高度成長に入るかぐらいで子供にとり食べ物の記憶は腹が覚えているようだ。さて今年はどこで食べようかと軽い財布と相談してみよう。でもあの時のうなぎを超えるのは難しいだろうな。

おまもり②

最近、お守りや古代のことがやたらと気になっている。俗にいうマイブームです。お守りは今まで初詣や旅行でどこかの神社仏閣、お土産などの際に購入すること位の感覚でしかなかったのですが自分がパワーストーンを身に着けるようになってからとてもいいと想い始めました。随分と心が助けられている気がします。

どこかの神社仏閣などのお守りやお札は、例えば学業成就・家内安全・交通安全等々の何かのお願い事が主ですよね。それに対してパワーストーンを身に着けるのは自分の心・メンタルの強化ということがメインのお守りと言えるのかわからりませんが自分にとってはお守りです。そういう観点で考えて整理していこうと思います。

老いてくると何もかもがどうでもいいと思えることがありますが、まだどれほど時間があるかを考えてもどうにもならないので思いついたことをダラダラと書きながら頭の整理をしているというのが現状です。