働き方改革と名刺

先日、新聞に労働分配率の低さの記事がでていましたが、まさにそこが問題なのです。バブル崩壊から失われた20年、リーマンショック、中国の台頭と時代が変わりゆくのについていくのが精一杯の私たちですが、その変化についていかねばならないからという旗頭をあげて内部留保を増やし続け、株主からの評価だけを正しいとしている企業が多すぎます。

 生産性の向上をいい、労働時間の短縮と成果主義のみで企業としての社会的責任が果たされているのでしょうか。今の日本の優良といわれる会社にはその会社に愛着をもてる社員が育つのでしょうか。国際競争で戦うためには愛着をもっている社員が多い会社が有利なだと思うのは感傷的なのでしょうか。

 ともあれ労働に見合った報酬が払われる国にならなければ、働く人のモチベーションはあがりません。消費も進みませんし、国内の景気も上がるはずもありません。働き方改革などといっても言葉だけのお題目になってしまいます。何が変わる必要があるのでしょうか。なにを我々はすればいいのでしょうか。

 自分ができることをしていくしかありません。政府や役人は決して責任をとりません。このことはみんなが周知しているはずです。ただ働き方改革は絶対に必要なことです。お題目だけに終わらしてはいけません。日本が沈みます。

 せめて名刺から変えてみてはどうでしょうか。会社からもらう名刺は会社で使えばいいのです。働き方改革は働く我々一人ずつが自分の名前で勝負していかねばならないと感じることから始まると思うのです。会社に所属していても自分の名刺を持てばいいのです。それが当たり前の時代にすることから始めればいいのです。

 どこの会社に所属しているかを人に知らせるより、自分が何ができるのか、したいのかを知らせる名刺を作り持ち歩くことです。それができている人こそ働き方改革の志士だと思います。世の中はそう簡単に変わりませんが一人ずつの考え方が変われば概念がかわり、今までの常識が非常識にすることができるはずです。さあ、「闘う名刺!」を考えましょう。そして一歩踏み出しましょう。

 

 

 

 

 

「これからの働き方」

今、世間ではコロナウイルスの感染で大騒ぎになっています。中国の武漢から広まった困った病です。その終焉はまだわかりませんが我々庶民の出来ることは手洗い、うがい、マスクしかないのが現状です。

 今回この流行で思うのは、いかに世界の大企業が水平分業で自国以外、中でも中国に工場を作り依存しているかということです。価格競争という名の下で自国製造ではなく海外のコストが安くできるところに分業しているかということです。

 もちろん中小企業もいっぱいありますが世界に名だたる企業が水平分業を当たり前のように正義としてやってきたかが解りました。それらの企業は優秀な人材として高学歴の人材の人気になっているところが多いのです。

 その人たちは幼いころから勉学に勉学を重ねてその狭き門の有名大学、有名企業に入ってきたのでしょうからスゴイ努力家なわけです。その人たちは世界で活躍することをモチベーションとして生きています。本人達はそこに幸せを感じるからこそ挑戦してきたのでしょう。

 そしてこのようなコロナウィルスの流行の時も働かされています。そして日本の経営者や政治家は終身雇用を終わらせるのが世界の常識というような態度です。我々は騙されていないでしょうか?もう一度考えてみないと将来大きな禍根を残す気がしています。

 いまの常識、当たり前が本当にそれでいいのかを疑問を持つことが必要です。人それぞれの幸せは色々ありますからこれだけが幸せなのだという思い込みだけは捨てましょう。

 それに最近流行りの働き方も方法の一つだという認識を持つと同時に、すべてがそれに代わることはありえないということも考える必要がありそうです。日本人は一つの方法が正しいと思いがちな国民性が特徴でもあります。

 昨年はラクビー人気がすごく、今年はオリンピックというスポーツイベントがありますが、その人気に隠れて不正や汚職や新しい変化が見逃されないようにしたいものです。働き方改革もその一つだと思います。気をつけましょう。

 

 

 

 

 

「初午?」

早いものでもう2月です。23日は節分、豆まきは当たり前のような季節の行事ですが、29日の初午(はつうま)はご存知でしょうか?二月になって最初の午(うま)の日に行われる稲荷(いなり)神社の祭りのことです。日本の行事は五穀豊穣を願うものが多いのですがこれもその一つだと子供の頃に聞いた覚えがあります。今年は明日が初午です。

 あまり一般にメジャーではないのですが、我々が子供の頃は(50年前位)まだ豊かではなかったのですが、初午には近くのお稲荷様を祀っている方が(有力者が多い)甘酒や、おでん、お菓子と色々近所の子供たちにふるまってくれていましたので、あちこちに行ってお相伴にあずかった思い出があります。今もやってくれている処はあるのでしょうか?

 聞くところによると府中はお稲荷様を祀る家が多い土地なのだそうです。むかしからの国府だった街ですから大国魂神社を中心に武蔵野の大地にも恵まれたからなのでしょうか。また豊かな農家も多かったのでしょう。江戸時代は徳川家康の保護もあったようです。

 行事とはおかしなもので記憶に残ったりするものと、全く忘れているものがあります。初午は自分のおなかの事情から忘れずにいますが、本当はもっと詳しく調べると面白い話題にできるのかもしれません。このおなかの記憶が悲しいかな凡人の現状です。

 話は変わりますが行事やしきたり、常識みたいなことは以外と明治以後のものが多かったりします。神代の昔から存在しているように思うのは間違いのようです。今常識といわれる考え方もそうなのです。戦前ぐらいに始まったことを大袈裟に歴史があるようにもったいぶっていることが多いのです。その時々の人々が都合よく使っているだけですから常識にとらわれず自分の考え方で生きるほうが、気が楽です。