名刺作成の考え方

今まで名刺は自分で作るというイメージはなかったと思います。たいがいの場合は就職すると総務課や人事課で業者に依頼し、定番のデザインのものが出来あがってきます。もらう側は名前や部署などが間違っていないか確かめる程度の認識ではないかと思います。それが当たり前のようになってしまいます。

 それで良いのでしょうか?今までならそれで十分だったかもしれませんが令和の時代はそうはいかないと感じています。名刺はビジネスマンにとっては必須のアイテム、ツールです。そのことが変わり始めているのかもしれません。なぜなら営業マンが不要なしくみが出来てきています。恐ろしい世の中です。

 名刺は会社や所属する人の証明みたいなもので、初対面や新規訪問、挨拶などのときに名刺交換がおこなわれて仕事自体が前に進むという営業行為に欠かすことの出来ないビジネスツールなのです。でも今はそれが崩れてきました。パソコンやSNSで探した取引先や販売先と取引することも多くなってきました。この場合、名刺はあまり意味がないのです。

 それでも個人同士が会わないで取引がすすむだけではありませんから重要なアイテムであることに変わりはありません。会社対会社の取引なら随分とやり方もあるようですが、個人の介在することが重要な場には個人の名刺が意味を持ってくるのです。名刺のありかたも当然変わります。

 今までのように会社から渡されたものではダメなのです。大体の場合、会社のロゴ、ISO等の認証マークが記載され洗練された会社の名前のロゴが入った個人の氏名が小さな文字で書かれているものが多いはずです。なぜなら会社と会社で取引するので個人のことは二の次で会社の社会的信用や認知が名刺作成の基準になっているからです。

 これからはそれでは通用しない世の中になります。大きな企業の信用は安定していて社会的道義にのっとって利益を蓄積することですが、昨今は検査偽装、数値偽装、改ざん、正当性があるかのリストラなど大きな力でやってしまうのが大企業のイメージなのではないでしょうか。

 これを見て実感しているのがちゃんと生きたいと思う大多数の日本人なのではないでしょうか。そのうねりはうまくは表現できませんが何かを変えていきます。それが浮世というものだと思っています。名刺もそのうねりの中で変わって行く運命だと思います。

 

 

 

 

働き方を考えよう

 最近は働き方改革ということが言われ色んなことが見直されてきているようです。働き方改革とは3つの角度から考えてみないと間違った側面だけが動き出してしまう気がしています。3つの角度とは政府の政策としての一面、企業側からの一面、そして働く人からの一面の3方向の角度から見ると言うことです。

 政府としては政策として打ち出したのは労働者が主体的に働くことや起業などを国家として奨励するという側面と人生100年の時代を年金・社会保障で乗り切るのが難しいことが現実になってくるからだと思います。老人が増えて、それを支える若者が圧倒的に少ない時代に突入する現実から目をそらせる為の妖術の一つかもしれません。気をつけましょう。

 企業から見ると変化した現実をごまかす、これも妖術の一つです。残業や休日をへらすことで社員の為のことのように宣伝しますが実際の給料は上がりません。必要な分は自分で考えて何とかしなさいといことになります。その為にWワークも副業も起業も認めますという態度になります。本当は現在までの業態ややり方でこれからの令和は乗り切れないから変化せざるをえないのです。それを国の政策だからやるという姿勢に装っているのです。企業理念とは名ばかりの会社がほとんどではないでしょうか。

 働く側の感覚は国から、企業から言われると、どうにもならないので仕方がないので適当にうまくやろうという考え方が主流なのではないでしょうか。昔のように会社命みたいにするのはあり得ません。会社は一生を面倒見てくれる存在ではなくなりました。その存在は雇用関係だけです。できれば自分が嫌でない仕事に就くことが目的になります。

 一つの仕事、会社の空いた時間はスマホでさがすといくらでもアルバイトが出来るのだそうです。うまくやると月10万ぐらいになると新聞にでていました。自由なようで不自由の始まりになります。これは幸せな労働とは思えません。派遣切りが流行のようだった平成を思い出して下さい。

 小商いを皆が当たり前になるようにしましょう。アルバイトでなく自分が主体になって商いをする国民になりましょう。国はその為に援護する政策を考えることが本当の働き方改革だと思います。令和は個人が小商いで輝く世になればと願います。

 

 

 

 

名刺屋として考えること②

今回は「場」について考えてみたいと思います。「場」とは名刺を使う場のことです。なぜ、こんなことを言うのかといえば最近きものの商標の問題について書きましたが、良く考えてみると「きもの」文化は欧米化という近代日本の流れの中で「場」を創ることが出来なかったものの一つと感じているのですが、名刺もそのような気がするからなのです。

 きものは洋風化のなかで成人式、結婚式などやイベントなどで日本を演出する際に使うように見受けられます。いわゆる「特別な場」です。日常ではなくなってしまいました。原因は何でしょうか。開国維新から国をあげて洋風化してきたことが最大の原因ですが、それだけではありません。着る人間が、そのほうが活動するのに便利で動きやすくイメージがいいと感じたからです。しかも安い。

 それまで着物を取り扱う店、呉服屋さんは街からどんどん消えてしまいました。なす術はありませんでした。時代とは恐ろしいものです。最近ではカメラ屋さんも街から消えてしまいました。実は私どもの関連するお店である印刷屋、印鑑屋、文房具屋さんも消えかけています。

 なぜでしょうか?大衆に使う「場」を提供していけなかったからだと思います。すべての業界が昭和の高度成長やバブルに浮かれていたり、平成の技術革新を真剣に商人が考えていなかったのではないかと反省しています。景気にばかり気をとられ本来の自分の扱う商品・サービスの利用される「場」創りに手を抜いてしまったのではと考えています。

 令和という新しい時代はネット、SNS、AIという恐ろしい社会が物凄い勢いで浸透しています。高齢化もまったなしです。そのなかで名刺という物が生き残るには「場」をいくつも創るしかありません。これは時代の中で創るしかありません。それには名刺というアイテムを再度考え直すことが要求されます。名刺を使う「場」を本気で作るしかありません。

 

 

「ぎんぎらぎん」がなつかしい?

 七月になり梅雨らしい天気が続いています。雨は嫌だといっても仕方がないので、せめて雨の中に咲くあじさいを楽しむような粋な人になりたいものです。そんなことを言っていると全国各地で大雨被害という無粋、洒落にならないニュースが流れてきます。頭のいい人も多い世の中なんだから何とかしてくれと言いたくなります。

 話は現実の世界の仕事な話になりますが、今の若い人達の仕事をすると驚くことばかりなのです。それが歳をとったということなのでしょう。昔、バブルの頃は「ぎんぎらぎんに、さりげなく」と歌の文句にありましたが、ムカつくけれどやる気のある人が多かった気がします。

 今はあたりが良く、好印象ですが流して生きている人が多いように感じています。良いことなのか、悪い事なのかは解りませんがご時世なのでしょうか。自分には無理の様です。恥をさらすかもしれませんが昔風にやって行こうと決めました。そんな天の邪鬼がいてもゆるされるでしょう。

 先日見積もりを依頼したら提出期限をすぎる言いわけがメールできました。以前校了後の商品の変更もメールできました。電話での連絡はきません。これがビジネスなら人はいりません。これは現実にそれでいいと当人も会社も思っているからです。最終的に人の首を絞めるのは人の考え方なのだと思います。数年後彼らは今の仕事をしているでしょうか?

 「ぎんぎらぎん」の時代は暑苦しいかもしれませんが、良くも悪くも結果がすぐでました。今は結果が知らないうちに、どこかで出ているのだと思います。「考え方」はとても大きな意味をもちます。ボクシングのボディブローのように回を追うごとに効いてきます。そのときはダウンするしかありません。その時もメールなのでしょうね。

 生き方に古いも新しいもありゃしません。ただ生きるのみです。どういう生き方を選ぶかを決めるのは自分自身ですから。何か愚痴を書いてしまいました。