小商いの生きざま

 小商いについて考えてみました。小商いは自分の一番相性のいい生き方なのです。ところが昨今のご時世なかなかゆったりとはしていられません。あまりに色々な事が変化していきます。まるで革命のときの時代のように思われます。いや、戦ではありませんが革命が起きているのでしょう。

 技術の進歩、社会の価値観、人の生き方など10年前とは違いがすごいと思います。自分の好きな「小商い」という生き方も日々色々な出来ごとに遭遇して右往左往しているのが現実です。そんな時代ですから改めて整理をしなければ根本の考え方が揺らいでしまいます。

 まず自分の思う小商いとは何でしょうか?それは自分の器に合った生き方が出来ることが第一です。よく人は器が大きいひとを目指しますが、自分は違うと思います。自分の器にあうことが最適だと思います。大きな器には大きな器の使い方がありますし、小さな器には小さな器の使い方があると言うことです。

 酒をのむのも大きな杯でのむのを見せる大相撲の優勝のときもありますし、家で晩酌を妻と一杯やるのはお猪口が良いのです。同じ酒でも使う器があるのです。どちらの器で人生を生き抜くかは自分で決めるしかありません。自分は小さな器で酒を飲むのを選びました。そこに迷いはありません。

 それなのに時代はあまりに多くの選択肢、器がある事を知らせてくるのです。インターネット、SNS等今まででは考えられないくらいの選択肢を自動的に送ってきます。自分も消費者も便利ですが迷います。商品そのものの価値より示される選択肢に頭を使いすぎてしまいます。それが今の世の中です。

 このなかで小商いを生業(ナリワイ)として生きていくのは簡単ではありません。自分がどの位置でどの器なのかを見極めながら生きていかねばなりません。昔よりはるかに便利な世の中ですが小商いは難しくなったのかもしれません。今年は元号が新しくなり、消費税も上がり、選挙もあり、来年の東京オリンピックを控える時代なのです。小商いは小商いなりに生きざまを見せて行く時なのかもしれません。

 

 

名刺の有り方も変わる

 新年の始めなので名刺の近未来について考えてみました。ビジネスツールとしての名刺を扱い始めてから26年になりますが、お恥ずかしい話ですが予想がとても難しいのです。ご承知のようにSNS、AIを始めとした技術の進歩と普及の速さが予想を超えるスピードなのです。もちろん予測し対応するのが当たり前なのですが、技術の進歩と普及に加えて多岐にわたる使い方が多方面で進んでいるのが現実であり社会システムや常識まで変化せざるおえない時代に突入した気がします。

 そんな中で名刺というビジネスツールだけ今までどおりの形式・考え方という訳にはいかないと強く感じています。ただ単にカラフルになったりデザイン性にたよるのもイマイチの感じですし、有名な社名やロゴに頼るのも情けない気がします。特に社名に頼ると昨年の超有名会社らのように偽装、不正、改ざんと何でもござれに与したものともとられかねません。もし自分の名前で仕事をされるならとても大きなリスクになります。

 では名刺はビジネスツールとして有効なものでなくなるのでしょうか?今までの形式の名刺では役に立たなくなると思います。なぜなら技術の進歩、普及による社会変化が常識を変えていきます。でも名刺は人が人と初対面で直接相対する時に、ちょうどいいツールという性質があります。このことが重要になって来るのです。

 社会はどんどん人のいないところでビジネスが成立してしまいます。働くことが善であるという考えから、AIなどに働いてもらうことが善に変わるかもしれません。でも、全体がそうなるのでしょうか?そういうやり方で成功を収めた人が脚光を浴びることがマスコミなどでピックアップされることになり、全体と感じるのだと思います。

 逆に人対人でなくては嫌な人達も半数はでると思います。浮世の天秤は振れながらもどこかで均衡を保ちます。前者には名刺は不要に近くなるかもしれません。しかし後者には新しい名刺の活用法と充実感がもてるようにしなければなりません。それが「闘う名刺!」です。自分の想いを、出来ることを、言葉化して表明してそれに共感してくれる人と取引をし縁を深めあうということに価値があると思う人達がもう一つの名刺、いや社会を作って欲しいと夢見て行動していきます。

 

 

浮世の渡り方を考える

年末から新年にかけての記事をみていると時代がかわると皆誰でも言うけれど、どう変わるかは決め手がないようだ。予測なんていうのはそんなものなのだろう。その中に人間が150歳まで生きる可能性を書いた記事を読みました。技術や医学の発達はすごいものですが、死因はというと自殺なのだそうだ。恐ろしい話と思いました。何でも出来るからと言って置き去りにするものが多いのではないでしょうか。

 正月らしからぬめでたくない話ですが考えさせられてしまいます。技術はどんどん進み置いてけぼりをくらう人間という構図はまさかと思いますがありえます。人は便利に弱く、権力、金にも弱いのですからAIなどが操りやすい対象のはずです。知らないところで色々な事が進み始めている怖さを感じます。

 AIや他の先進技術の進歩は隠さず報道されたとしても、その意図はわかりません。誰が何のために使うのかが解らないと、とてつもないことになる気がします。自分の頭では解決できませんが、昔人間の自分としては笑われても「第六感」を大切にしようと考えています。

 そんな中で闘う名刺、小商いなどを通してよく解らない浮世を観察していこうと思っています。ままにならぬ浮世ですが、ここで生きているのですから生き抜く手立てをみつけるしかないのです。流されて生きる道もあれば、大船にのる道も、筏や小舟で生きる道もあります。

 どれが正しいかは人それぞれ違いますが、色々な例や経験は知っていた方が流されても息ぐらいはできるたしになります。何が正解か不正解はわからないのが浮世というものなのでしょう。浮世をわたるナビはありません。自分が考え、作る事しかないのです。この一年はそのことを出来の悪い頭で考えて行こうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

新年に

平成31年が始まりました。1/1には毎年早朝に大国魂神社に初詣に行きます。今年は少し遅れて出かけるとものすごい人が並んでいたのでお札を納め新しいお札を頂き帰りました。体調もあまりよくないので無理はしないようにしました。もちろん近くの神社なのでお参りは翌朝いくことにしました。

 1/25時ぐらいに起きたので用意して6時前に着くと門がまだ閉まっていて、その前に20名位すでに並んでいました。6時から開門でしたが知りませんでした。正月三が日はずーっと開いていると思っていましたが63歳になるまで知りませんでした。

 6時に開門して本殿前で参拝することができました。いつもとちょっと違う気持ちでお参り出来たような気がしました。それにしても知らないで過ごしていることは多いものなのだと思いました。勘違いや思いすごし、知らなければならないのに知らないでいることがどれほどあるのでしょうか。

 今年は知ったかぶりをせず、もう一度色々な事を見つめ直すようにしようと思います。歳をとると頑固になるようなので柔らかい頭でいられるようにしたいものだと考えています。歳は嫌でもとりますが少しでも柔軟な発想を受けいられるようにしなければ人生つまりません。

 新年はいつも計画をたてるのですが、なかなか思いどうりにいくことはないのが現実です。歳をとると色々な現実を受け入れなければなりません。良い事より悪い事の方が多いのも現実なのです。以外に大変な事なのです。それをじたばたしながら過ごす覚悟をするのが歳を重ねることなのでしょう。

 どうせ悟ることなど凡人にはできないのですから、あわただしくジタバタして格好悪くても生き抜くことにします。でもきっと良いこともあると信じて目の前のことを乗り越えて行こうと決めています。